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青山 (東京都港区)wikipedia
2011/12/27 19:18:35 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 全般
青山 (東京都港区)wikipedia
青山(あおやま)は、東京都港区の地名。現行行政地名は北青山一丁目から三丁目、および南青山一丁目から七丁目(いずれも住居表示実施済み地区)。この一帯は古くから「青山」と呼ばれるが、単に「青山」という公称地名は存在せず、過去にも存在しなかった。郵便番号は、107-0061(北青山)・107-0062(南青山)である。沿革 [編集]青山地区における住居表示実施前後の 町名町域対照地図徳川家康の重臣であった青山家の広大な下屋敷(現在に於ける別荘に該当)にちなみ、この付近一帯の町名に青山を冠した(赤坂青山○○町)ことが地名の起こりである。青山家の末裔には、骨董鑑定家青山二郎(1901年-1979年)やゲランミツコで有名なクーデンホーフ・ミツコ(1874年-1941年)がいる。現今ではブティック・美容室など服飾関係の商店が目立つ。青山家が江戸時代中期に八幡藩(現岐阜県郡上市)を所領とした縁で、同家の菩提寺である南青山の梅窓院では、年に一度「郡上おどり in 青山」が催される。江戸の街外れとして大名の下屋敷、庶民の町屋、雑木林などが広がる地域であったが、明治以降は中流の住宅街として発展し、東京オリンピックに合わせ大幅に拡張した厚木街道(大山街道)は青山通りとして呼称が定着、以後は徐々に個人商店や民家、そしてアパートがオフィスビル、マンション、高級ブティックなどに取って代わられた。庶民の住宅街だった青山は今日の街へと変貌を遂げるものの、南青山2 - 4丁目にはかっての庶民的な面影が色濃く残る。住居表示 [編集]1966年10月、住居表示実施に伴い町名と町域が変更され、この地区を横断する青山通りを境に北青山と南青山が成立した。北青山一丁目から三丁目と南青山一丁目から七丁目の範囲は、住居表示実施前の赤坂青山北町と赤坂青山南町のほぼ全域と、赤坂青山三筋町、赤坂青山高樹町を加えた範囲に相当する(このほか、隣接する麻布笄町、麻布新龍土町、原宿一丁目、赤坂檜町、赤坂新坂町のごく一部の区画を編入した)。赤坂青山六軒町の東側と赤坂青山権田原町だけは元赤坂二丁目への編入となる。赤坂青山高樹町の名前は、首都高速道路のインターチェンジ(高樹町出入口)などにその名を留めている。ファッションの街 [編集]1965年11月に、ソサエティ・オブ・スタイル(略称SOS、現在はSOSモデルエージェンシーとも言う)から独立した池田英二が青山地区初のモデルクラブであるセントラル・ファッションを発足(子会社にセントラル・プロダクション、セントラル子供劇団、セントラル子供タレント)。

忠犬ハチ公wikipedia
2011/12/27 19:16:17 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 全般
忠犬ハチ公wikipedia
忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)の名で知られる、ハチ(1923年(大正12年)11月10日(12月16日とも) - 1935年(昭和10年)3月8日)は、秋田県北秋田郡大館町(現:大館市)出身の秋田犬。飼い主が亡くなった後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として有名になった。ゆかりの地には銅像があり、特に渋谷駅前の銅像は待ち合わせ場所の目印として全国的に有名(「渋谷ハチ公前」などと通称される)。生涯 [編集]晩年のハチ1924年から東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地(現:東京都渋谷区松濤一丁目)に居住する東京帝国大学農学部の教授、上野英三郎に飼われることになった。上野の存命中は、玄関先や門の前で上野を見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。上野の自宅は、現在の東急百貨店本店(旧大向小学校)周辺といわれている。1925年(大正14年)5月21日に上野が急死した後も、毎日渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けたといわれ、東京朝日新聞の記事により世間一般に知れ渡った。主人を慕うハチの途な姿は人々に感銘を与え、「忠犬」と呼ばれるようになった。幾度となく、野犬狩りの危機にも陥ったが、近隣住民の配慮で免れた。1935年(昭和10年)3月8日、渋谷川に架かる稲荷橋付近の路地で死去。死後間もなく東京大学農学部において病理解剖が行われた。その結果、心臓と肝臓に大量のフィラリアが寄生し、そのために腹水が溜まっていた事が明らかになった。これが死因とする事が多い。しかし一方、胃の中に焼き鳥のものと思われる串が3 - 4本見つかっており、これが消化器官を傷つけていたという指摘もされている。遺体は剥製にされ、国立科学博物館に保存されている。また、臓器もホルマリンに漬けられて保存されていて、後の2010年暮れから臓器を検査した結果、心臓と肺に重度の悪性腫瘍が発見されている。重度のフィラリア症であることも改めて確認され、2つの病気のどちらも死因になりえたという研究結果が2011年に発表された[1][2]。なお晩年の写真では左耳が垂れているが、これは生まれつきのものではなく、皮膚病による後遺症である。忠犬説に対する異論 [編集]主人の生前も死後も毎日のように渋谷駅に現れる本当の理由は、駅前の屋台から貰える焼き鳥が目当てだったという説がある。この説は、ハチの死体を解剖した際に胃の中に細長い焼き鳥の串が数本突き刺さっていたという事実が元になっている。また渋谷出身で、生前のハチを実際に見ている鉄道紀行作家の宮脇俊三の著書『時刻表昭和史』には、ハチが駅周辺の人達から与えられたエサ(焼き鳥だけではない)を愛食していた記述があり、この説の有力な根拠となっている。ただし、実際のハチの行動からは、この説に矛盾する部分がいくつかある。屋台が出ない朝9時にも必ず駅に通っていた。「ハチの渋谷駅へ行く日課は正確であった。小林宅を出るのは毎日午前九時ごろ。暫らくすると戻る。夕方は四時近くなると出かけ戻るのは午後五時過ぎから六時頃であった。 これは、故主、上野博士の朝出かける時間と夕方の帰宅時間であった」(『ハチ公文献集』より)焼き鳥を貰えるようになったのは駅通いしていた9年間のうち、新聞で有名になった最後の2年間のみであった。それ以前は、駅員や焼き鳥屋、子供など駅周辺の人々から邪険に扱われており、時には暴力を受けるほどであった。二番目の飼い主の小林菊三郎からは大切に飼育されており、食事には牛肉を与えられ空腹になるということはなかった。(『ハチ公文献集』より)駅に到着すると、屋台前ではなく上野博士が出てくる改札口前に座っていた。駅に行く途中、必ず旧上野邸に立ち寄り窓から中を覗いていた。ハチのことを新聞に投書した斎藤弘吉によれば、駅員や焼き鳥屋にいじめられるハチがかわいそうなので、日本犬の会誌にこのことを書いたが、より多くの人に知ってもらうためにと、朝日新聞に投書したという。斎藤は自著『日本の犬と狼』のなかで、次のように記している。

SHIBUYA-AXwikipedia
2011/12/27 19:14:42 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 全般
SHIBUYA-AXwikipedia
SHIBUYA-AX(シブヤ-アックス)は、東京都渋谷区神南二丁目にある、日本テレビ放送網株式会社、株式会社電通の共同事業ライブイベントスペース。概要 [編集]2000年12月16日にオープン(杮落し公演は、Dragon Ash)。主に、若者に人気のミュージシャン・アーティストのライブで使用される。AXは、日本テレビのコールサイン、「JOAX-TV」が由来。同じ発音の“axe”(斧)は無関係。狭すぎず、広すぎず、渋谷駅と原宿駅、明治神宮前駅から徒歩10分以下と、立地条件も比較的良い。オールスタンディング時、合計1500人超〜2000人弱規模のライブハウスは数少なく、2000年代前半において東京では本会場と赤坂BLITZ(旧施設)だけであったが[1]、赤坂BLITZはTBSの再開発事業のため、2003年9月から2008年3月まで閉鎖された影響で、一時期は同規模を持つ唯一[1]のライブハウス会場となっていたことで、SHIBUYA-AXの公演数も多くなった。また、2004年まで日本テレビで放送されていた「AX MUSIC-TV」内で、SHIBUYA-AXでのライブ情報を放送していた。施設概要 [編集]地上2階(ホール吹抜)。1階席はオールスタンディング・シートスタイルの2種類が設定可能(飲食スタンドあり)、2階席は固定椅子席(座席後方に立見スペース、仮設イススペースあり。公演内容によってどちらかに変わる)。1階フロアにはステージと観覧スペースを分ける柵と、それに平行するように中央部にもう1つ柵がある。また、後部が一段高くなっており、その中央がPAスペースとなっている。最も前の柵とステージの間には人が十分に通れるスペースがあり、セキュリティやカメラが入れるようになっている。ステージは比較的高く、1階の後ろからでもステージ上を見渡すことができる。収容人数 - オールスタンディングスタイルで1・2階合計最大1,697人[2][3]、シートスタイルでは1・2階合計757人[3]。コインロッカー - 建物内には無く、全て建物の外にある。正面から敷地内に入ってすぐの所にやや大きめの400円のコインロッカーが、建物の右側に回り込んだ所に300円のコインロッカーがある。数は比較的多いが、チケット売り切れの公演の場合は全て使用中となってしまうこともある。会場の外では、駅にも多くのコインロッカーがある。最寄駅 - 原宿駅、明治神宮前駅、渋谷駅



宮下公園wikipedia
2011/12/27 19:13:41 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 全般
宮下公園wikipedia
宮下公園(みやしたこうえん、渋谷区立宮下公園)は、東京・渋谷にある公園である。渋谷区神宮前6丁目に所在する。概要 [編集]JR山手線渋谷-原宿間の線路と明治通りに囲まれた細長い形状の公園である。公園は近接する鉄道の築堤とほぼ同じ高さに持ち上げられた人工地盤上に整備されており、下層の一階部分は駐車場となっている。初めは1930年(昭和5年)頃、東京市都市計画による公園として現在地に開設されたが、現在北側に隣接する「神宮通り公園」と同様に線路の築堤の元にあり、道路と同じ高さに設置されたていた。それが東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)頃に、近接する渋谷川(穏田川)の暗渠化[1][2]とともに公園を高架の人工地盤とされ、その下の地上部分に駐車場が設置された。2006年(平成18年)にはフットサルコート新設開設、2010年(平成22年)9月から再整備のために一時閉鎖の後、翌年4月に再開した。再整備によりエレベーターが設置されるなどバリアフリー化され、有料のクライミング用ウォールやスケート場が新設されるとともに、人工芝2面のフットサル場も改修された。また、開園時間を毎日正午から午後10時半とし、深夜から午前中にかけては閉鎖される形態となった[3][4]。公園再整備(2011年) [編集]フットサルコート宮下公園は再整備を経て、2011年(平成23年)に新装開園したが、ここに至る経緯には紆余曲折があった。公園は近隣地区において貴重な緑地となっていたものの、1990年代以降には多数のホームレスが生活するようになるなどして環境が悪化していた[5]。また、各所の老朽化もあることから再整備が計画されたが、渋谷区は2009年(平成21年)6月、公園の命名権をナイキ・ジャパンに売却するとともに公園の改修費用の全額を同社の負担とし、有料公園として改修する方針を公表した[6][7]。10年間の契約で命名権を取得したナイキ・ジャパンは、公園を「宮下ナイキパーク」と命名、さらにスケートボード場やクライミング施設、エレベーターなどの整備費として年間1,700万円を支払うこととなった。一方、渋谷区はそれまで公園に住んでいたホームレスのシェルターへの入所支援や、退きの手伝いを行った[5]。これらの渋谷区の方針に対して、説明が不十分である、公共の場である公園を私企業のための閉鎖空間化することやナイキの宣伝媒体として使用することへの反対[8]、ホームレスの強制排除[7]などを問題視するアーティスト[5]や市民団体が2010年(平成22年)4月ごろから反対運動を行っている[8][6]。反対派はホームレス立ち退き後の公園を占拠し、カフェと称してコーヒーなどを振舞っていたほか[9]、破れた傘や壊れた自転車などをオブジェと称して公園内に設置していた[5][8]。反対派による動画共有サイトなどでの宣伝を通して海外の一部反グローバリズム運動団体がこの動きを支持し、各国の日本大使館前やナイキ店舗前でデモを行った[5]。これらの反対運動により改修工事は延期され、渋谷区は反対派の公園占拠により区民が公園を利用できなくなっていると反対派を批判した[5]。区は2010年(平成22年)9月15日に公園の出入り口9箇所のうち7箇所を閉鎖し、同月24日に行政代執行を実施してテントなどを撤去し[10]改修工事を開始した。10月14日になり、ナイキは命名権料を支払った上で宮下NIKEパークの名称を使用せず、改修後も宮下公園の名称を存続させることを表明した[11]。2011年(平成23年)4月21日に反対派の3団体とホームレス1名が渋谷区を相手取り、路上生活者の生活とアーティストの表現活動の場を奪った行政代執行は違法であり、また精神的苦痛を受けたとして、600万円の賠償を求めて東京地裁に提訴した[12]。改修工事が終わり、2011年(平成23年)4月30日に公園はリニューアルオープンした。再オープン当日は多くの利用者でにぎわったが、改修反対派が公園前でデモを行い、警察が出動する騒ぎになった[13]。宮下町 [編集]この公園のある一帯はかつて宮下町と呼ばれ、公園の名称もこの地名に因んでいる。宮下町は1932年(昭和7年)の渋谷区成立時に定められた町域で、渋谷川(現在の旧渋谷川遊歩道路、通称キャットストリート)に沿った南北に細長い低地部が相当し、その東側の高台である美竹町には当時、広大な梨本宮邸があったことから「宮下」の名が付いた。この町名は1966年(昭和41年)の住居表示施行とともに消滅、現在は渋谷区神宮前6丁目と渋谷1丁目のそれぞれ一部となっている。

109 (商業施設)wikipedia
2011/12/27 19:11:59 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 全般
109 (商業施設)wikipedia
SHIBUYA109・夜景109(イチマルキュー)は、東京急行電鉄の完全子会社である東急モールズデベロップメント(TMD)が展開するファッションビルの名称。TOKYUポイント加盟店。名称の由来 [編集]由来は「東急(とうきゅう)」の読みを数字の「10-9」 → 「いち・まる・きゅう」にあてた語呂合わせから。また、午前10時から午後9時までの営業時間である。概要と沿革 [編集]SHIBUYA109(渋谷) [編集]渋谷区渋谷で展開するセゾングループの渋谷公園通りの開発に対抗して、東急グループが東急百貨店本店に続く東急本店通り(現・文化村通り)に顧客を吸引するために、TMDの前身である旧「東急商業開発」が1979年(昭和54年)4月に東京都渋谷区道玄坂二丁目の道玄坂下交差点に面した鋭角の角地にオープンさせた「ファッションコミュニティ109」(現・SHIBUYA109)が初の店舗であり、今なお売上の多くを占める旗艦店である。開業当初は20代後半から30代の女性向けテナントを集積させていたが、その後方針を転換。現在では店内のほとんどが10代後半から20代前半の女性向けのテナントで占められている。その購買層からは「マルキュー」の略称で呼ばれている。 鋭角の立地を活かした円柱形のエレベーター・タワー(シリンダーと呼ぶ)が特徴の設計は、ポストモダン建築で有名な竹山実による。アルミパネルで覆われたその壁面は、渋谷駅ハチ公口前の渋谷駅前交差点(スクランブル)などからも容易に見通せるため、化粧品、携帯電話や旬の歌手などの広告が掲げられ、その時々の商業戦略をうかがうことができる。また、正面玄関前および道玄坂側の店舗前にある「109スクエア」は、シリンダー広告と連動、あるいは単独でのイベントスペースとなっている。新製品のプロモーション、サンプリング、タレントの出演など、店舗の顧客層をターゲットにすることはもちろん、地の利により多数の通行人の目に付きやすいため、週末を中心に宣伝媒体の一つとして利用されている。なお、シリンダー広告のスポンサーの決定後にイベントスペースのスポンサーが決定するため、広告が競合する場合は利用できないことがある。渋谷のシンボルとして定着しているため、『ガメラ3 邪神覚醒』、『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』、『ドラゴンヘッド』、『日本沈没』など多くの作品で破壊される描写が登場する。かつてはBunkamuraなどとともに東急線の車両のつり革に広告を出しており、地方に譲渡されたこれらの車両には当時の広告がいまだに残っているものもある。




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