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強い信仰心
2010/02/27 02:29:06 書庫 究極のロハス

今月からこのブログはコンセプトを変えました。唯物的なことはなるべく言わないことにしたのですが、昨日はアイススケートという極めて唯物的な話をしてしまいました。

バンクバー冬季オリンピックもそろそろ終わりを迎えていると思うのですが、結局金メダルは1個も取れない感じですね。寂しい反面、スポーツ選手にとってはオリンピックは特別な祭典なのでしょうが、一般人からすれば酒の肴程度の話題でもあって、3日もすれば忘れ去っていくような世界でもあります。

ようするに自分の生活にあまり関係ないわけで、キムヨナが金メダルを取ったからと言って、その感動は1日で消えて無くなるようなものでもあります。


ところでいきなり質問ですが、魂の存在を理解しない状態で、生きていて、意味があると思いますか?

ある意味で、この世の中で学んできたこれまでの唯物的価値観を信じて生きていくことに、意味があるかということです。

なんとなく夢を目指す。とにかく明日も働く。ともだちとメール交換して遊ぶ。ブログに記事を書いて面白がる。なんとなく家族が幸せであればいい。給料を得るために職場で働く。たまには息抜きもする。今度の休日は映画でも見に行って時間を潰そうと思う。それともホームセンターに行って、まとめ買いしてこようと思う。それとも家で子供と遊ぶ。毎週毎週その繰り返しで死んで行く感じの人生であるわけですが、こういう人生に価値があると思いますか?

価値が無いと思う人はたぶんいないと思うのですが、わたしは敢えて嫌われること覚悟でいいますが、魂を信じない、正しい信仰を持たない人生は、多少は意味はあると思うのですが、とにかく勿体ないと思うものです。

1年で分かることを、一生かけて学ぶような人生だと感じます。ひたすらドタバタ働いてきて、ふと自分の人生って何だったのだろうかと思う時が必ず来るといいます。死ぬ頃にほとんど例外なくそう思うそうです。

ということは、「今」そう思ったほうがいいんじゃないでしょうか?「今」そう思えれば、それからの人生は得したことにならないですか?

その分精神的に長生きしたようなことにならないでしょうか?

そしてそう思わせてくれる自覚は、信仰心をおいて他にはないです。

肉体年齢と精神年齢は必ずしも比例していません。毎日のように今日の自分は何だったのだろうかと振り返られる人は、精神年齢が1千歳、一万歳にもなっていきます。時間というのは、精神年齢によってみんな違うわけです。

だからキリスト教でも仏教でもヒンズー教でもイスラム教でもいいから、一度本気になってその門を叩いて、本気になって勉強するといいですよ。ガンジーは信仰を山登りに譬えています。宗派というのは複数の山道のようなものであって、頂上にたどり着けば、同じものを信じていたことが分かると。

ガンジーやマザーテレサのお葬式にはあらゆる宗派の人が弔問に来たと言います。彼らのような聖人からすると信仰心を持たないということは、ナンセンスとしか思えないほど理解できない話でもあります。

強い信仰心が無い限り、自分の運命(魂)は開かないです。

宗教心を持たない人生は、プラスマイナスゼロの人生でしかないかも知れないわけです。それどころか生まれる前より魂をさらに汚して落ちていくそうです。多くの聖者がそう語っているわけですが、自分はそこまで言える自信はありません。そこまで断言する自信はありませんが、そう書かれているからには、やはり勿体ないと思うわけです。

そしてつくづく勿体ないと思うから、こうやって伝えることにしたわけです。





















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