2010/03/11 13:26:13 |
究極のロハス |
|
現代科学では思いも精神も脳から出ているものということで解釈していますから、心も悲しみも、物質だと考えざるを得ない。そこで唯物学者は脳を解明すれば全てが判明すると説明しています。 ですが良く考えて欲しいのは、たかだか小ぶりのカボチャみたいな物体に、全宇宙の真理を押し付けるのはあまりにも無理があるといえます。 脳は、遺伝子によって自然に出来あがった有機体のコンピューターですが、しかしそれ自体では動きはしません。どういうことかというと、パソコンに電源を入れただけの状態ではうんともすんとも動かないです。パソコンのこちら側に人間という意志のある存在があって、それがプログラムを作動させて行かないとパソコンは機能しないように、次元の異なる魂(生命意識)が脳という有機パソコンを動かしているというのが真実です。 たとえばです。脳味噌だけを何らかの形で細胞が死なないように取り出したとします。するとその脳はオリジナルにモノを考えるかというと考える能力は無いです。電源の入ったただのパソコンです。何の役にも立たない。そのカボチャみたいな有機パソコンを使って独自にプログラミングして使いこなしているのが不滅の魂である自分という意識です。 宇宙の構造にもヒントがあります。卵状の物質宇宙の外側はなんで出来ているかですが、科学者は誰も答えられません。子供の頃議論した覚えがあるでしょう。丸を書いて、この外側の無限的なものは何なのかと。果たして誰が答えられるかです。科学的には分らないとしか言えませんがしかし宗教的、直感的には答えることは出来ます。 つまり有限宇宙の外側は、次元を超えた純粋精神で、神の精神に包まれて物質宇宙が浮かんでいます。もっと正確に言えば、純粋精神の中に包まれるように、純粋精神(魂)と物質世界という低次元の異なる精神が同時に存在しているということになります。物質ですら精神の一部なのでそんな説明になります。 物質世界の中に精神があるとつい考えますが、大間違いなのです。あのアインシュタインだって宗教哲学書を読み、晩年はそう思っていた。 人間として生きていると常に肉体という物質が付きまとっているので、自分も含めて全てが物体に見えますが、だからといって心も悲しみも精神も愛も物質なんだと考えるのは人間的に冷たさを感じるでしょう。人前でそんなことはなかなか言えないです。科学では全て物質だと言っているんですから、何も遠慮することは無いのに、感情が割りきれません。神の一部である自分の本質(魂)が否定するからかも知れません。つまり物質が中心で無くて、すべて魂(心)が基本だということなのです。 精神的という言葉をよく使います。それは心とか愛情、感情、内面的、哲学的、深い洞察性、神秘的なものといった意味合いで使われていると思うのですが、精神と精神的では意味が全く違います。 精神的なものを大事にする文化という意味は、優しさ、思いやり、助けあいを基調にした世界、宗教的なものも大事にするような世界観として使っているだけで、不滅の魂が全ての基礎であるという認識ではありません。文化人が神社仏閣を散策して情緒的に語るようなそんな安易なものではないのです。 唯物史観が根底から否定される話でもあるし、もし真義がそうなら驚天動地な話なはずです。自己の魂が不滅だということであるなら、教育も自分のこれまでの感覚も根底から見直さなければならないです。地動説が天動説に変わるぐらいの内容であるし、現代文明がとんでもない思想で動いているということが分かっただけでも、生き方が全然変わってくるはずなのです。 それぐらいの話なんで、自己の本質は不滅だという認識についてぜひ本気になって考えて見ることをお薦めします。時間が本当に勿体ないです。 コメント(0) トラックバック(0) |
|



2010/03/11 13:26:13