ごーやーどっとネット沖縄  [PR]沖縄の求人サイト! こんにちは ゲスト さん。 ログイン・ブログをはじめる  
マイナスな生き方
2010/02/28 12:14:33 書庫 宗教の本質と魂



ブログは読む順番が逆になるので、論理的な話は物凄く書きにくいですね。それから読んで欲しい記事がどんどん埋もれていく感じがするので、やっぱり淡泊な日記的機能がブログなんでしょうか。

メルマガと違って、ブログは不特定多数の人が集まってくるので、細かい話は基本的にさけるようにしているため、どうしてもダイジェスト版みたいになってしまいます。そういうことで説明不足はさけられないのですが、ただ最近強く思うことは、精神的な話題がネットでは少ない気がします。

魂も信じない、自分を正す姿勢があまりない、神仏の存在も理解しようとしない、ただ個人的な夢だけを追いかけている、果たして、こういう人生に意味があるのか?考えているところです。

確かに無信仰でも努力はします。人のためと言って頑張っている人も大勢いるでしょう。そういう善意によって治安も守られています。環境問題の深刻さに警鐘を鳴らしているNPO。弱者のために、粉骨砕身へとへとになって働いている人もいます。

病気で苦しんでいる人を助けるお医者さんもいれば、社会悪を暴くのだと正義感に燃えるジャーナリストもいるかも知れない。あるいは日本人の期待に応えたいといって、金メダルを目指して死に物狂いで努力する人もいます。

確かに人間は努力はしています。しかしです。それなら社会はどんどん良くなるのではないでしょうか?格差もなくなり、戦争もなくなっているかも知れない。

ということはです。それ以上に悪を犯している可能性もあるわけです。プラスマイナスで見るとマイナスのほうが大きいかも知れない。善の働きよりも悪のエネルギーのほうが強く出ているということです。この現象をどうとらえるかです。

テレビ、週刊誌、ネット、スポーツ、ゲーム、芸能、政治、全てが軽い感じがしないですか?内容が希薄、頭が空っぽ、軽い言葉、思考停止、詐欺的広告、ギスギスした社会、孤独、将来不安、陰湿な欲望、不倫、浮気、交流の希薄さ・・・。

この総体的な無知なエネルギーのほうが、日々地道に努力するエネルギーを飲み込んでしまっているのが現代社会のようにみえます。努力よりもいい加減さ、心のタガが外れている量が多い。そこから家庭や社会秩序を崩壊させていっています。だから良くなるどころか日増しに社会は悪化してきているという見方はできないでしょうか?

確かに努力もしている。しかしその努力も自己中心的なものが多い。そして努力以上に、勝手気ままな言動をとり、家庭や社会の秩序を崩壊しているエネルギー量のほうが多いとしたら、人間的にどれほどの価値があるのかということです。

気分がいい時は思いやりも持てます。しかし自分の状況が悪くなると人の頭を叩いているわけで、思いやりより叩く量が多いのが現状だとしたら、虚しい話ではあります。



コメント(0)
トラックバック(0)

強い信仰心
2010/02/27 02:29:06 書庫 宗教の本質と魂

今月からこのブログはコンセプトを変えました。唯物的なことはなるべく言わないことにしたのですが、昨日はアイススケートという極めて唯物的な話をしてしまいました。

バンクバー冬季オリンピックもそろそろ終わりを迎えていると思うのですが、結局金メダルは1個も取れない感じですね。寂しい反面、スポーツ選手にとってはオリンピックは特別な祭典なのでしょうが、一般人からすれば酒の肴程度の話題でもあって、3日もすれば忘れ去っていくような世界でもあります。

ようするに自分の生活にあまり関係ないわけで、キムヨナが金メダルを取ったからと言って、その感動は1日で消えて無くなるようなものでもあります。


ところでいきなり質問ですが、魂の存在を理解しない状態で、生きていて、意味があると思いますか?

ある意味で、この世の中で学んできたこれまでの唯物的価値観を信じて生きていくことに、意味があるかということです。

なんとなく夢を目指す。とにかく明日も働く。ともだちとメール交換して遊ぶ。ブログに記事を書いて面白がる。なんとなく家族が幸せであればいい。給料を得るために職場で働く。たまには息抜きもする。今度の休日は映画でも見に行って時間を潰そうと思う。それともホームセンターに行って、まとめ買いしてこようと思う。それとも家で子供と遊ぶ。毎週毎週その繰り返しで死んで行く感じの人生であるわけですが、こういう人生に価値があると思いますか?

価値が無いと思う人はたぶんいないと思うのですが、わたしは敢えて嫌われること覚悟でいいますが、魂を信じない、正しい信仰を持たない人生は、多少は意味はあると思うのですが、とにかく勿体ないと思うものです。

1年で分かることを、一生かけて学ぶような人生だと感じます。ひたすらドタバタ働いてきて、ふと自分の人生って何だったのだろうかと思う時が必ず来るといいます。死ぬ頃にほとんど例外なくそう思うそうです。

ということは、「今」そう思ったほうがいいんじゃないでしょうか?「今」そう思えれば、それからの人生は得したことにならないですか?

その分精神的に長生きしたようなことにならないでしょうか?

そしてそう思わせてくれる自覚は、信仰心をおいて他にはないです。

肉体年齢と精神年齢は必ずしも比例していません。毎日のように今日の自分は何だったのだろうかと振り返られる人は、精神年齢が1千歳、一万歳にもなっていきます。時間というのは、精神年齢によってみんな違うわけです。

だからキリスト教でも仏教でもヒンズー教でもイスラム教でもいいから、一度本気になってその門を叩いて、本気になって勉強するといいですよ。ガンジーは信仰を山登りに譬えています。宗派というのは複数の山道のようなものであって、頂上にたどり着けば、同じものを信じていたことが分かると。

ガンジーやマザーテレサのお葬式にはあらゆる宗派の人が弔問に来たと言います。彼らのような聖人からすると信仰心を持たないということは、ナンセンスとしか思えないほど理解できない話でもあります。

強い信仰心が無い限り、自分の運命(魂)は開かないです。

宗教心を持たない人生は、プラスマイナスゼロの人生でしかないかも知れないわけです。それどころか生まれる前より魂をさらに汚して落ちていくそうです。多くの聖者がそう語っているわけですが、自分はそこまで言える自信はありません。そこまで断言する自信はありませんが、そう書かれているからには、やはり勿体ないと思うわけです。

そしてつくづく勿体ないと思うから、こうやって伝えることにしたわけです。





















コメント(0)
トラックバック(0)

抑制の美学
2010/02/26 18:48:48 書庫 省エネ/ロハス/エコ


今日はフィギアスケートの決勝戦ということで、楽しみにしていました。どうなることやらと見ていましたが、やっぱりという結果になってしまいました。

技術は浅田、表現力はキムヨナ。オリンピックでは点数の付け方に多少問題があるのか意外と大差でしたが、基本的にはイイ勝負の二人だと思うんで、これからも頑張って欲しいですね。若干コーチの考え方に差が出たということじゃないかと思います。

それにしても新聞のラテ欄を見ていると、逆転金メダルの見出しが軒並み躍っています。生ライブを見ていた人はさぞかし息を飲んで応援していたんじゃないでしょうか。わたしも自分の娘が踊っているような、ドキドキ感で見てしまいました。

ですが終わって見ると、意外とあっさりしたものです。多少予想はしていたので、そうなのかも知れないですが、ただやっぱり日本人が感じているように、「勿体ないなあ・・・」という思いはあります。個性を殺してしまったような気がします。

思うに彼女は典型的な和風美人なので、意外と浄瑠璃的な操り人形の無表情さが面白い気がしました。彼女のことを能面のようだと悪口を言う人もいるのですが、逆にそれを武器にすることも出来ます。写楽絵のような多少寄り目な顔を時々しますね。

キムヨナの物憂げな表情、すねた表情、男性を誘惑挑発するような表情、コケティッシュな表情、こういう人間臭い表情は現代劇的ではありますが、日本には抑制の美学があります。これからみんなキムヨナ風表情たっぷりの現代劇のほうを追求するはずなので、一人逆を行ったほうが目立つと思います。戦略的にも面白いと思うのですが・・・。

アイススケートに生かせるか分りませんが、彼女には日本調の気品のある世界を一度挑戦して欲しい気がします。

もったいないですよ。素晴らしい文化があるのに。












 



コメント(0)
トラックバック(0)

不滅の自己
2010/02/26 00:57:25 書庫 宗教の本質と魂


このところ魂の話ばかりしています。数年前の記事を読んでいると我ながらあまりの幼稚さに穴があったら入りたくなります。軸が無いのでチャラチャラした文面になっていて、いかに柱が必要か痛感します。

思うに、やっぱり自分を正すことが一番重要なことであって、それだけ聞けば如何にもクソ真面目な印象なのですが、魂は不滅なので、心を制御できる自分を作りあげることに全力を挙げたほうが得であるということをやっぱり伝えたいですし、であるなら、やはり魂の存在を語らないと話にならないと思った次第です。

ときに観念的に聞くことのある存在ですが、観念でも幻想でもなく、原理原則、基本中の基本であって、この認識が弱いととにかく人生は迷わされます。そして選択の道を間違えていくと言っても過言ではないです。

残り僅かな人生、のんびり生きればいいじゃないか、と自己満足の生活で終わっていきます。懸命に生きるあり方が、時代遅れのように感じる人もいるわけで、確たる真理も存在しないと見てしまうと、何もかもが適当に終わってしまう。

それで魂なんか無くて、死と同時に自分の全てが消えて無くなるのであれば問題無いのですが、精神宇宙は存在するから、人間失格となって後が大変なわけです。

よく考えたら本当に凄い存在だと思います。肉体も含め、物質の全ては寿命がきて消えていくものですが、魂は永久に不滅なわけですから。

長嶋茂雄の引退演説のような抽象論ではなく、自分自身の魂が究極の本質(宝)なのであって、あらゆる疑問も答えも全てそこに集約されます。

1兆円よりも価値の高いものをみんな持っていながら、どうして外を見てあれこれ探し回っているのでしょうか?

もちろんみんな持っているわけです。だから「平等」だと語られているわけです。

それなのにどうしてこの大変な「存在」を茫然と受け流し、軽く見てしまうのか不思議です。自分の本体は不滅なのに、わざわざ否定するわけです。

死後、自分の全てが消えて無くなるんだったら、何も苦労して努力する必要は無いし、早く死んだほうがいいんじゃないでしょうか? そのほうが一番楽だと思います。

楽しく楽なことより苦しいことのほうが遙かに多いですから、死後消えて無くなるなら早く死んだほうが一番賢いです。死んだら全てパーなんだということになると、宇宙だとか地球だとかそんなことなんかどうでもいい存在になるわけで、生きる意味すら破綻してしまう事実に、早く気が付いたほうがいいと思うわけです。

それにしても100兆円よりも価値の高い存在を平等に有していながら、
人類は何を探しているのでしょうか?



コメント(0)
トラックバック(0)

沖縄の宗教とユタ
2010/02/24 14:57:35 書庫 沖縄の宗教とユタ


沖縄の宗教とユタについて

沖縄の宗教
というと有名なのが「ユタ」が挙げられる。もうひとつは仏教と道教の影響を受けた先祖供養で、亀甲墓という共同墓もあちらこちらに見受けられる。

その特徴や考え方については細かく説明するほどのものでも無いと思っています。民族宗教文化論を語るためのブログではないし、それはすでにいろんな人がやっているので、お任せします。

ところで自分の母親もユタ的な才能を若い頃は持っていたようで、あの世の霊と会話したり、霊視したり、あるいは予知のようなことも自然な感じで出来たようです。

自然な感じというのは、別に宗教的祭壇を設けてとかでなく、日常生活の中で見えたり聞こえたりしたらしい。まあ今でもそういうところはあるのですが、普通人として生活しながら、たまにあの世の霊(親戚関係)と会話していたりしています。

「さっきお爺さんが来ていたから、話したんだけども・・・」といった感じで、ごく自然な感じです。

昔からそういう体質を母親が持っていて、いろんなエピソードも聞かされているので、あんまりあの世の者とあれこれ話さないようにと釘を刺すこともよくあります。だいたいそのあと体調を崩して寝込んでしまうことが多いので。

そこでユタなんですが、いったい正体は何かですが、基本的にご先祖さんの魂の霊的干渉であれこれやっているもので、基本的に神様ではないです。百歩譲って神々的なものだとするなら、10段階に分けた中でかなり位の低いローカルな神?と言っていいです。

こんな簡単に言うと失礼なんですが、本土にもノロという霊媒師の女性たちがいるのですが、高級な霊は関わっていません。このブログの宗教書庫を読めば分かると思いますが、霊媒や占いでは人生どうにもならないです。

私の母も若い頃才能?があったので、何度か知り会いに引っ張られてつき合ったようですが、二度ほどユタのおばさんから、あなたは怖いから早く帰って下さいと言われたらしい。ユタを指導している霊が怖がっていたらしい。たぶんですが、私の母のほうが霊の位が高いのでそうなったんじゃないかと思います。

次に沖縄の先祖供養ですが、仏教系のものと道教系のものがミックスしている地域もあったりします。どっちにしても、先祖代々の魂をねぎらい感謝するための宗教行事ですが、今は信じてやっているというよりも、親族の集いのための年間行事といった扱いになっているので、さぞかしあの世のご先祖様も虚しさを感じていることでしょう。

今の日本人は魂の存在を信じているのかどうなのかよく分らないで生きている傾向があるのですが、これはもったいない話ではあります。

次元の違う世界がとにかくあって、魂の存在、つまり自分の本体は魂で、その延長線上に神仏的存在があると思えば、科学的に説明不能なものもすんなり信じられてくると思われる。

科学は物質を分析する世界なので、物質を超えた世界については万歳せざるを得ないです。物質宇宙は精神宇宙の4分の1の領域だとも語られているので、残りの4分の3の次元の異なる世界は霧の中に隠れています。

現代科学では脳が全てだと解釈しているので、精神も物質の一部だと考えています。だから死ねば精神も死ぬと考える。ですが心情的にこれでは納得出来ないですよ。人が死んで、葬式に参列して、ハイもう精神も何かも死んで無いのですと思えるとしたら、心の薄情な人でしょう。

「きっとお母さんは天国で見ていると思います。私の心の中で生きています・・・」と大概の人は思うわけです。そして何かと位牌に手を合わせるわけです。死んで何も無いなら手を合わせる必要は無いでしょう。

心の世界を観察すれば、物質宇宙に精神があるんじゃなくて、精神宇宙の中に物質宇宙が浮かんでいるという理解のほうが正解なのです。有限の物質宇宙の外側は、いったい何なのかです。

物質宇宙は儚いです。「」という概念があるからです。ですが「魂は不滅」だということになると、これほど凄い話はないです。考えたら凄い存在が生命の本体なわけですから、強く生きなければならない理由も、手を抜くと損する理由も分って来るはずなのです。自分自身不滅ですから。

今の科学で証明出来ないからといって存在しないのだと言い張ること自体、科学的では無いわけで、理性的に語るなら、「宗教のことは専門外なので良く分らない」という言い方をするのがまともな科学者だと思われる。

アインシュタインですら、物質宇宙は、思いのようなもの、精神的なものによって動かされているのではないかと語っているぐらいです。

ただ理解を難しくさせているのは、霊魂の世界は普通は見えないだけに、神と悪魔の区別が付かない点です。

だいたい神とか悪魔といっても、99%は元は人間です。人間だから奇人変人いろいろいます。それが死んであの世に帰って、生きている人間に干渉してくると、本質が見えない人は、なんでもかんでも神様だと思って言うがままに動かされてしまいます。

かくして訳の分らない宗教宗派が乱立して、理性的な人々に不信感を与えている現実は否定できません。

ところで宗教のレベルを判断する基準があります。ぜひ参考にしてください。
http://blog.goyah.net/crita/45293-msg.html
















コメント(0)
トラックバック(0)


[ 次の 5 件を表示 ]