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普天間基地問題
2010/04/26 20:28:56 書庫 政治経済


世間の流れは騒がしく、虚しい情報に社会は押し流されて行く状況です。

たとえば普天間基地問題について首相も民主党も内心青くなっているというのが本音でしょう。米国からもそっぽを向かれ、座礁寸前の鳩山丸と言った気配です。

かといって、沖縄にはもう基地は要らないという主張が沖縄県内ではますます強くなってきているのですが、普天間基地問題への関心はアンケートでは7%ぐらいしかなかったほど、全国的にはやっぱり他人事になっています。

沖縄県が断固反対ということになると、日米同盟も安全保障も根本的に見直さなければならず、その場合、それなりに自衛隊が自国を守る武力は必要だと判断していかなければならないですが、その覚悟が無いまま、今の普天間基地問題を外野席から見ている格好です。

つまり5月末を持って、日米安全保障をどうするのか?という火の粉が本土に飛び火していくということになります。

よく考えると鳩山さんに日本の安全保障を任せるなんてこんな恐ろしい話は無いかも知れません。よく鳩山首相にリーダーシップを発揮することを望む声が未だにあるのですが、これほど愚かなことはないかも知れず、その象徴が普天間基地問題なのです。

一昨日、BS放送で元NHKワシントン支局長の日高義樹のレポートを見ました。沖縄県内の各米軍施設の中枢に入って、特に海兵隊の役割を詳細に伝えていた。今まで沖縄に住んでいた私ですが、ここまで内部に潜入し情報を鮮明に伝えた番組は見たことなかったですが、沖縄はまさに世界戦略のための不沈空母であることを物語っていました。沖縄県人の9万人の主張が如何に徒労に終わるかが暗示されている番組でした。





















 



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最高の知性を身に付ける
2010/04/23 12:03:58 書庫 究極のロハス



宗教というと古臭い思想のように感じる人が多いでしょう。形骸化しているものが多いですから文化遺産のような形式的存在になっているものが大半かも知れません。

ですから単に宗教心が大事だとは言えないもので、どうしても、「正しい」という形容詞付きの宗教観であるべきだと語っています。

宗教的見地、視点、見方というのは、学問的に言うと究極だと思われる。究極の学問、最強の知性です。ですが、誰もそんなものだとは感じられないでしょう。それはそれだけのものに触れていないからで、それだけの宗教に接した経験が無いからです。

昔ダルマという聖者がインドにいたわけですが、彼に弟子入りするために腕を斬り落として、その心意気を示した青年がいました。何度も断られて、それならばということで腕を切ってダルマに差し出したのです。聖者から直接学ぶということの大変さが隠されているエピソードです。

何度も言っていますが、宗教は100段階ぐらいのレベルに分かれます。そして最高峰の知性を有する宗教世界では、迷いとか悩みとか、苦しみとか焦りとか存在しません。一般会員にあっても存在しません。

たとえば誰しも人と打ち合わせをしたり相談し合ったり、会議に参加したりしますが、正しい信仰者はどんな場であろうが、100%満足することが出来ます。意見がぶつかりあうことは無いです。そこで語られる世界をどう理解したら人の心は癒されるのか?完璧な捉え方が出来るように自己の知性の無さを学ぶのみです。だから争いにもならないし、対立感情も湧きません。

わかった風な考え方に支配されている人は存在しません。自分は正しいと思い込んでいる人もいません。自分の意見にこだわる愚か者もいない。最高の知性を有する集団だからそうなるし、家でも職場でもそうですから、常に平和です。常に客観的です。

宗教的知性は、最強の道具だと言います。私が勝手に喋っている雰囲気なのでとても最高の知性には思えないでしょうが、基本的に人間が勝手に作った思想では無く、時代と共に人間の低俗な価値観が混在してきて、宗教が無意味化してしまっただけです。

その点も踏まえ、心の重要さを痛感していないと、究極も、永遠も、真実も、完全も、正しさも、安らぎも、平和もありえないもので、自分自身、唯一の存在状態以外、関心を持たないようになっていきます。雑念から離れた生き方が楽だということが分って来ます。

どうせ生きるのですから、最高の状態で生きたほうが得だし、誰も不安な状態ではいたくはないでしょう。そのために斬新な情報や得するような話しにみんな飢えているわけですが、自分を動かす自分の哲学がフラフラしていたり、世論に振り回されてばかりじゃ、どこに向かって歩いているのか不明になっていきます。

問題は、何をどう考えることが最高と感じるかですが、そこは人それぞれ価値観の違うものが下層の世界にはあります。何万人ものファンの前で歌を歌うとか、スポーツだったら多くの観衆の中で優勝するとか、あるいは一時的であるが肉体的快楽であるとか、麻薬を打ってハイになるとか、下層的な世界ほど最高の状態はいろいろあると考えます。

下層の場合はそうやって瞬間的な世界に魅了されていますが、次元が高くなるに従って、時間軸が重視されてきます。ずっと永遠に満足しているかどうかです。一時的感動でなく、1日24時間ずっと感動的かです。知性の上中下によって目指すべき状態が変わってきます。

従って、宗教的知性は学問の究極だと言えるわけで、迷いとか悩み、苦しみや焦り、不安や嘆き、怒りや恐怖が存在しない自分を作りあげることを目指すようになっています。

最高の状態を常に作り上げています。

永遠に、最高の状態であるべき世界は、存在するものであり、空理空論でもなく、絵空事でも無いし、何を信じているかによります。これといって信じるものが無く、真実の世界を安易に自己否定するから、いつまでも迷い悩み、心の世界がまったく開かないし、ずっと閉じているのです。

低い知性を卒業するしかありません。感覚に翻弄される知性、真実は存在しないとする知性、心の法則は存在しないという知性、神や宗教を安易に見ようとする知性を大事につかんで離さないと、次の段階、中級クラスの段階にすら上がれません。




































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祈りと宗教の目的
2010/04/22 20:20:02 書庫 究極のロハス


宗教は何段階にも分れていて、しかもレベルが高いものほど地味です。

逆に低級なものほど社会的名誉にこだわり、組織拡大を考えるので、それだけ大衆化し認知度が高いですから、形式的な宗教ほど宗教だと考える傾向があるでしょう。従って、神仏に祈る意味が分らないことが多いです。

祈りの意味が分らないというのは、無執着な自分になれるように祈るもので、利己的な欲望のために祈るものではないからです。個人的な成功や勝利を願う祈りは本当の神には通じない。

祈りや宗教の目的がどこにあるか不明な状態で、宗教を信じているから救いようが無いものになっています。

何べんも言うように正しい宗教心を持っていれば、悩まないし迷わないです。怒りもしないし愚痴も出ないし不平不満も湧かないです。仏教的な悟りの一つや二つは簡単に達成できます。

人に対して誠実に尽くそうと思ったとき、その時は神様を信じているのと同じです。逆にどんな立派な神様を信じていても、人を悪く見ていたら悪魔信仰をしているに過ぎません。宗派は本当に関係ないです。形や形式では無いし、本当に謙虚になって誠実に生きている人は、宗派に関係なく神に近い状態になっているものです。

人間が苦しむのは、正しい宗教心が無いからで、愚かしい宗教心ではどうにもならないということになります。自分の欲望を叶えるために宗教があるわけではないということです。

目指すものを間違えているということです。私利私欲の無い無執着な自分を目指すもので、自分の栄光や成功を望むなんて愚かな真似は絶対しない。ハッキリしている。だから誰でも神仏の境地に近づいていけるし、容易に救われるのです。

物質によって幸福になれないことぐらいはまともな人なら判断出来ます。特に虚栄心が強いほど他人との戦いにもみくちゃになって苦しむでしょう。

何を望んで生きているのか、人間は常に振り返ってみるべきだといいます。そのために釈迦等は禅定三昧の日々を送ったのですが、本音の部分で、心の安らぎなのか、優越感なのか、肉体的快楽なのか? まるで整理も出来ずに本能丸出しで生きるとしたら、生きている意味は無いかも知れません。次の世は犬や猫にすらなれないです。一万年は棒に振るかもしれません。

宗教は人間が作った思想ではありません。宇宙が出来る前から存在する精神的法律ですから、無視すれば自分が不幸になっていきます。

世間は神があるのか無いのか信じられない世界です。それと同じ土俵の上に乗って生きているとしたら、本当に無意味です。





















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占いは運命を悪くする
2010/04/21 07:50:18 書庫 究極のロハス

そもそも占いは宗教の世界ではやってはいけないことになっているようです。邪道ということなのですが、これは人間を作った創造主がじかに語っています。

ですが現実には神社の境内ではおみくじなんてものもあったりして、商売、娯楽的要素も取り入れて大衆化している分量、宗教力が消えてしまったということも言えます。

イスラム教では占いは死刑になるほどやってはいけない大罪ですが、ではどうしてダメなのかです。

基本的に運命は神が決めるもので人間が決めることは身の程を知らないからということが言えます。占いをやるような人は魔女的なイメージがあるのですが、自分がどれほど不遜なことをしているのか気が付かない。昔のキリスト教世界でも魔女狩りといって死刑にしてきた歴史があります。

二つ目は占いは統計学ですが、統計上こうだからだからこれからこうなるというのでは救いようがないわけです。今まではこうだったけどもこれからはだからこうしなければならないと方針転換を示しても、ダメなのです。なぜならそもそもやってはいけないからで、人間の分際で、しかも神様が決めることを勝手にあーだこーだと指示するわけです。しかも商売として金儲けでやってしまうのです。神はその点認めないですから、認めないことを信じても運命は良くなるはずがないということになります。

占いどおりにやったら商売がうまく行ったという話はあるかも知れないですが、それは確率ですから、10名のうち2,3名は当たるのが当然でしょう。しかも仕事が一時的に成功したからと言って、それで運命が開かれるというものではありません。99%の金持ちはみんな地獄に落ちていくぐらい運命が悪いからです。キリストは言っているのですが金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るよりも尚難しいというのです。ようするにあり得ないということです。

もっとも愚かしいことは占いはある意味で目に見えない世界を対象にしています。それは霊的なもの、神的なイメージの世界です。でありながら神様を正しく信仰することは教えません。欲望を刺激するような、恋愛感情を膨らませるような都合のいいようなことばかり言いますから、占いを信じる人はますます愚かしくなっていきます。自分を厳しく戒めるということが無く、知らぬ間に悪魔信仰に入っていくのです。

運命を開くとは、ようするに人間としてやることをやっていればいいわけです。自分の心の奥にいる自己中心的な自分をやっつけることです。サディスティックな悪魔な自分をバッサリと切り捨てられるかです。そのために人生は戦いが設定されているもので、戦う相手は、他人では無いことぐらいは最低知っておかなければならないです。

内面的にはそういうことであり、外交的には人を敬う献身奉仕の行為です。この両方をやっている人には神様がバックについているでしょう。いちいち神様神様とお願いしなくても神々が守ってくれるし、そういうルールになっています。そういう人間を守るようにと創造主が八百万の神々に命令しているからです。宗派は問いません。

ましてや神々でなく創造主を直接信じようものなら、あらゆる宗教儀式も必要無いです。宗教と言うと弱い人がするものだと思いこんでいる人がいますが、本当は逆で、心の中にいる身勝手で無責任な自分を認めない生き方ですから、心を強くするためにあるものです。

とにかく人間としてやることをやっていればいいわけで、それが最高に運命が良くなる道だということですが、このこと自体なかなか信じようとしないのが現代人です。ですからこの点明確に理解する時代、宗教が一つになっていく時代がやってくるという意味もあります。

沖縄のユタ社会が崩れて来たことはある意味で良い傾向ではあります。











































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悪魔の自分と戦う
2010/04/20 07:05:04 書庫 究極のロハス

生活していると対立感情に揺れてきます。上司、夫婦、親子、同業他社、地域紛争、政治闘争、国家間、スポーツ、ライバル全般、意見の対立、相手の不遜な態度等から、許せないだの戦いだのと心の中でいつも戦争しています。

宗教はそもそも心の中から湧いてくる対立感情に揺れる悪魔の自分を、叩きつぶすためにあるといってもいいものです。であるのにプライドを傷つけられた、生意気だ!ということでワーワーと心の中で囁いている悪魔の声にみんな翻弄されていくのです。

本来宗教心ほど争いや戦い、戦争とは無縁なものはないですが、相手が存在を認めず、無法に侵略してくる場合は、安全保守の観点から武力で食い止める必要性はあるぐらいで、これは政治常識として認められる話です。

しかし日常的に血を流す戦争をしているわけにはいかないです。隣の人の行為は許せない、非常識だ、だから殺さなければならないと考えるようなケースはほとんど無いです。ありますか?

人間は弱く愚かですから、何かにつけて相手を悪者にするのはたやすい。99%相手が悪いと考える。しかしそんな馬鹿な話はありません。真理の世界では、悪いのは自分の心の中にある対立感情です。この点明確に理解していないから宗教も意味不明な存在になっています。

本来戦う相手はいません。対立感情が湧いてくる相手はいないです。もし殺人強盗が襲ってくるとしても、勝手にさせると相手の運命が悲惨になるから、早く捕まえて牢屋に入れたほうがいいわけです。争いの感情はありません。相手の将来を思う慈悲しか無いです。

考えて欲しいことは、自分の人生です。安らかに生きたいのか、ドタバタした人生がいいのかです。ドタバタコースが楽しいと思う人は、そうそういないと思います。

振り返れば振り返るほど人生がバカみたいに疲れると思える人は、ぜひ宗教心を持って生きるといいです。争う相手はいないことが分って来るほど楽なことはありません。24時間安らいで生きていけるような運命が与えられてくるでしょう。もし戦う相手がいるとしたら心の隅に隠れている悪魔の自分です。この愚痴っぽいバカ者を沈黙させることができるかです。

戦う相手を間違えないことです。














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