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さらに無執着に
2010/08/31 04:55:12 書庫 政治経済
先週ブログ閉鎖の挨拶をしましたが、最近政治経済がより不安定になってきているので、このブログで書いていたものも公開しておくことにしました。

過去に書いていると思いますが、アメリカが立ち直ることは極めて厳しいです。勤勉な日本人ですらバブル崩壊から立ち直るのに10年かかったわけですから、アメリカ人がかつての栄光を取り戻すのに何十年かかるかです。

2年前は大統領選で盛り上がっていました。1年前もそれなりに市場は能天気に構えていたです。でもこのブログでは当初から、釘を刺していました。

話は変わり、閉鎖宣言をしたというのにまた書いておりますが、いちお無執着なので、過去の発言にこだわらないようにしております(^^;)

ところで代表選はどうなるのでしょうか?

小沢さんを支持する人々はある意味恋愛感情に似ていて、あばたもえくぼなのかもしれません。人間ですから欠点もたくさんあるでしょうが、それがあまり見えないようです。

一方彼を嫌う人もたくさんいます。欠点がやたら目につくのでしょう。心理学的には自分の影の部分を象徴しているのかもしれません。

たとえば世論の支持率が低いのに、突っ走って行こうとする感覚は、考えてみると恐ろしいものがあります。小沢さんならこの難局を乗り越えられると信じたい気持は分かりますが、彼はただ積み木を作っては壊す遊戯をしているに過ぎないかも知れません。

一方管さんはどうなのか?また今の閣僚たちはどうなのでしょうか?日教組と労働組合を抱えて、果たして改革ができるかです。かといって小沢さんには日教組の大幹部である輿石参議院会長がコバンザメのように貼りついているのでどうにもなりません。

いちお無党派なので冷静に見ているつもりですが、思うに、政治家が悪いと言うよりも、どんどんダメにしていくように世論が導いている感じもします。

その象徴がテレビで、9割方遊び番組です。遊んでいる場合じゃないのに、みんな遊んでいます。お料理番組、グルメ番組、お笑い系、芸能人のつまらない番組、ドラマやスポーツも悪くは無いでしょうが、代表選という政治ゲームをしている場合かと私たちが考えるように、大衆もまた、ぼーとテレビを見て遊んでいる感じがします。

ものすごく余裕があり過ぎる。円高だ、株が下がった、年金がどうした、就職が出来ない、高齢化社会だと不安を感じながらも、家に帰ればバカ番組ばかり見ているわけで、まあ人のことは言えないのですが、まだまだ日本人は余裕があるんじゃないでしょうか?

時代はどんどん悪くなっています。そういう社会を作ってきたのは私たち大人です。果たして子供の未来はあるかどうか?100年後地球があるかどうか?自分の子や孫のことを考えたら、やっぱり馬鹿騒ぎしている場合じゃないと思いますよ。無責任な気がします。


















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死んだら無になるのか?
2010/08/02 21:58:27 書庫 究極のロハス


現代科学では、死ねば自分はゼロになると見ているのですが、ゼロになるんだったら、みんな自殺したらどうかと思う。生きる苦労をするよりも苦労の無いゼロになったほうが楽なんじゃないだろうか?

長生きして体の痛みや死の不安、あるいは孤独の不安を抱きながら生きているのが普通です。楽しいことや幸福な出来事より、難儀なことや苦しいことのほうが時間的に遥かに多いのだから、死んで自分が完全消滅するなら、ことさらに生きようとするのは浅はかな人間だともいえる。

あの世もある、来世もあると思えるから生きることが辛くても、最後の最後まで努力していく理由が鮮明になるもので、そういう意味で人生1回限りという観念では、道徳的に生きる価値を説得力を持って説明することは出来ないだろうと思われる。

死んで無になるんだったら、良いことをする理由もあまりないし、努力する理由もほとんどない。100名人を殺しても、慎み深く生きても、最後は同じ結末の死で終わるわけですから、これじゃ存在する価値が良く分からなくなってしまう。

病気を治そうとして苦労すること自体、空しく儚い。楽になりたいなら、二度と目覚めないほうがいいし、早く死んだほうが一番楽なはずです。

願望と現実が破たんしているとしか言いようがない。魂も否定しあの世も来世も否定し、そして神を否定していくなら、苦しい環境の中で懸命に生きる必要はないのに、どうしてジタバタしながら生きているのだろうか?
一番楽なことは注射でも打って早く死ぬことだし、唯物思想を信じるのであれば、そう思うことが一番論理的です。

確かに人生には楽しみや感動もありますが、時間量で考えてみれば、感動のためのわずかな時間のためにどれほど難儀し苦しんでいるだろう?それでもなお且つ執念深く生きるというなら、馬鹿としか言いようが無いじゃないですか?

ただ骸骨が動いているに過ぎず、石ころが時間の流れで転がっているような運命でしかない。死んでゼロになるなら、本当は生きている価値もゼロではないのか?ただ狂人が徘徊しているのと変わらない。

でありながら、生きることの価値をあれこれ語ろうとする。生きていればそのうちイイことがあるさというのですが、そのうちという以上、普段は苦しいという証明になるでしょう。どうしてわずかな感動のために苦労しなければならないのでしょうか?それこそ潔く死んでいったほうが遥かに楽なのにです。

この疑問の真意はこういう理由になります。
現代科学の唯物思想に染まってあの世も神も否定しているのが今の日本人ではあっても、本能ではそうではないために、生きようとするということでしょう。

数十年の頭脳では魂を否定しようとするのですが、永遠に生きてきている本当の自己(魂)の、微かな記憶が本当の「永遠」を望んでいるからだと思われる。
永遠の愛、永遠の勝利、永遠の魂、永遠の国・・・死んでゼロになるならそんな存在しない世界を求めるはずは無いのに、感情や本能はそういうわけにはいきません。家族が死んでもやはり生きていて、天国から見ていると考えようとします。そうではないですか?

葬儀でも、死んだ人に対して語りかけますが、どうしてそんな無駄なことをするのでしょうか?近しい人が死んだら、やはり次元の違う世界に旅立って、そこから自分を見守ってくれているんだと考えるのが常識的ですらあります。

しかも自分の葬式にこだわる人がほとんです。死んで消えてなくなるなら、死後のことをどうして心配するのだろう?お葬式の生前予約する人の多くは、自分の死後ですら見栄をはっているから救いようがありません。

つまり単純に人間はモノだとは思いたくは無いでしょう。現代人は、人間は物質の塊だと思想教育を受けたわけですが、一方で「そうではない、人間は心なのだ!」と分けのわからない破たんした論理を持って生きています。

こういう中途半端な思想で生きるから、いつまでも悩み苦しんでいるのだろう。確固たる哲学がありません。神は存在する、あの世も存在する、自分の魂も永遠であると思えた人のみ、成長していく資格を持つのであって、この世しか信じない人は、冗談抜きで何の意味もない人生を歩いていると、古今東西の聖者たちは語っている感じです。

彼らが言うには、この世は成功するためにあるのでもなく、楽になるためでもなく、自分が勝利するためでもなく、もちろん人前で威張るためでもなく、遊び呆けるためでもなく、人から拍手喝さいを得るためにあるのでもなく、やりたいように生きるためでも無いという。

苦しくてもいいのです。環境が悪くても、運が悪くても、親がヒドくてもいいのです。見た目が悪くても、体が不自由でも、頭が悪くても、常に貧乏でもいいのです。そういう中で、善意を捨てずにどれだけ善意に生きられるかを神様がテストしているだけだと思えるかどうか?

だから善意の深い人ほど華やかな人生は望まないという。勝ち組みといった冷たい世界は求めないでしょう。いつも苦しい人の立場に立って生きようとします。だからキリストは、針の穴をラクダが通るよりもなお、金持ちが天国の門をくぐることはあり得ないと語っている。

アメリカの富豪たちが寄付の精神を強く持っているのも、キリストの言葉による感じです。








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