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1から出直しロハス論
2011/04/12 14:19:37 書庫 究極のロハス
ロハスな世界を追求するなら、確かに原発は廃止する方向なのかも知れません。

今回の震災を通じて日本人は、節電方法を真剣に検討するようになりそうで、

大変いいことだと思います。

意外と25%節電は可能な話も聞こえて来ています。

余った夜間電力を如何に利用出来るかが当面のキーワードになりそうです。


うちはクーラーも暖房も使わないので、かなり優等生です。

夏場は扇風機を2か月ほど使い、

冬場は足元に遠赤外線のものを回してはいますが、部屋中を温めているわけでは無いので

CO2削減にはそれなりに貢献しています。


ロハスという観点で言うと、小生はほとんど薬を飲みません。

せいぜい歯が痛い時に飲むぐらいです。

おかげでろくなものは食べていないですが、未だ入院もせず、

免疫力は高い感じはします。


しかし最近ぶくぶく太ってきているので、ダイエットを開始しようかと思っています。

いちお水ダイエットです。

現在の体重は 85キロです。







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物的価値観とテレビ界
2011/03/27 12:26:07 書庫 究極のロハス
放射能の科学的説明を幾ら大衆が聞いても、本当にどうにもなりません。というより今の今そんなことを考える時機かであって、全力を挙げて東日本の被害を受けている人をどーサポートするかなんではないか?

原子力問題は、専門家に任せるしかないし、平時のときなら、それだけをニュースにして騒いでいてもいいですが、現時点の優先順位は違うはずなのです。
のではないか。

強烈なインパクトを与えるテレビの力を、不安が醸成されるように使われている。ここは政治家も東電もマスコミもテレビも一つになって行動するのが、良識的な判断ではないか。「日本は一つになる」「今こそチームワークを」とはそういうことなんじゃないでしょうか?

だから、細かく情報を出せとマスコミは騒ぐわけですが、それをもとにしてどんどん社会を不安化させているのは誰か。

ところが、ありとあらゆるものを政府や政治の責任にしているのがテレビ界なわけです。私もいったい政府は何をしているのだろうと時々思いますが、それ以上にテレビ界は何をしているのだろうかと思っている。

一言で言うと薄情な感じがする。同情して終わり。募金を集めて終わり。政府批判して終わり。CM的3分間報道をして終わり。そして原発は深刻に報道して終わり。後は東京の大きな建屋にこもって優雅にお仕事をしている。偽善者の巣窟だと言ってもいいかも。ここまで言う人はあまりいないですが、私の場合テレビ界の利権とはなんの繋がりも無いので言えるのだ。

日本は一つだと信じて行くのであれば、福島原発で事故処理している人たちを全面的に信じたらいいではないですか?そのうち鎮静化させてくれるだろうとどうして信頼して上げないのかです。それが信じられないという分量、勝手に不安を感じているだけではないか。













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究極のロハス
2011/03/23 01:31:03 書庫 究極のロハス
ロハスと言うと、自然界にも自分の体にも優しい生き方ということらしいですが、前にも話したように自分の心も穏やかであることは当然のようにも思うので、そういう意味で究極のロハスとは、やはりそれなりの精神性が背景にあるように思われます。

省エネとか節電というと効率的でエコノミックなイメージがありますが、ロハスと言うと、効率性が軸ではない感じがします。そして究極のロハスということになると、家族単位的な話でも無くなってきます。最終的には精神的な哲学に集約されるのではないでしょうか?

思えばさんざん無駄なことばかりしてきました。後悔しても時間は戻って来ないのですが、東日本大震災では無いですが、人間(自分)の無力さを最近感じる今日この頃です。

驚天動地の津波を見て感じたことは、津波と戦わないほうがいいだろうと思ったのです。どういうことかというとなまじ防波堤を作るから人間は油断するんじゃないかということです。世界的な防波堤を作り、津波訓練も十分していた地域がこっぱみじんに破壊されたわけで、むしろ波に対して対抗するような壁というよりも、波を受け流したほうがいいのではないかと感じたのです。壁で対抗するというよりエネルギーを受け入れて分散化させていく感じです。

具体的にいうと、細長い小高い丘なり建物を縦に築いたほうがいいのではないかと言うことです。津波が来たら、さっとそこに駆けあがり、海抜の低い場所はそのまま津波の自由にさせます。路上にあるものは押し流されるかも知れませんが、人の命は助かるでしょう。たとえば5階建ての細長い建物を海岸に対して垂直に並べるような配置です。

なまじ波に抗うような作りをするから、破壊が連鎖してしまっています。船が家を壊しその残骸が次の家を壊し、その残骸がどんどん凶器に変わっていく感じがしました。ですから逆転の発想で、波を受け流す構造学もあるのではないかと思った次第です。

省エネとかロハスというと物を大事にする思想が背景にありますが、究極のロハスは、物にこだわらない世界だと思われます。集める、財産にするという考え方でなく、全ては自然界のもの、全ては神様のもの、ただそれを人間は使わせてもらっているだけ、リースしているだけと考えれば、比較的どんな大災害が来ても大きな心の傷は受けない感じがします。

このところ余震が長く続いています。長周期地震だと高いものほど揺れるそうです。大都会の高層ビルは果たして耐えられるでしょうか?津波でも来たらエレベーターは2,3カ月は動かなくなります。高層ビルに住んでいる人は大変だろうと思われる。地下鉄も全滅です。東京はいずれの日にかゴーストタウン化する時代も来る気がします。100年持たないのではないか。

ところで究極のロハスは、結果にこだわらないというか、結果を恐れないことでもあります。といってももうほとんど怖れながら人間は生きています。恐れないようにしようと強がるわけですが、それが怖れている証拠になってしまう。常に疑心暗鬼で不安です。単に強がり、粋がっているだけでは、やはり本当の幸せ感というのは得られない感じです。

東日本の野菜は食べないようにという布令が今日出ました。ここまで神経質になるなら原発はいずれ廃棄したほうがいいんじゃないでしょうか。わたしだったら喜んで食べるのですが、本当にもったいないです。それにしても福島県は踏んだり蹴ったりの状況で大変です。地震、津波、原発避難、そして農畜産物被害・・・。

通常のロハス信者なら農薬は否定的ですから、たぶん放射線だとなおさら抵抗を感じると思うのですが、普段原発の電気も使用している生活をしているわけですから、いささか矛盾もしています。

ちなみにロハスのイメージは、どちらかというと裕福な人の道楽みたいな分野になっている面もあります。貧乏な人はそんな余裕も無く、怪しい中国産を食べているでしょう。近くの業務用ス―パーでは、半分近く中国産です。外食事業の大半は中国産を使っている感じがします。

それにしても東日本の野菜は洗えば食べられるのにもったいないですね。

今のような状況だと、土壌も汚染されるでしょうから、東日本のお米も農畜産物も魚介類もこの2,3年売れない可能性が高いです。企業も逃げて行ってどうやって復興出来るかです。ロハスな人は果たして放射能入りの農産物を食べてくれるのでしょうか?水も何もかも純粋なものを選んで生活するのでしょうか?平時ならいいですが、東日本の復興も念頭に置いて社会学的にどういう行動を取ればいいのかやはりもっと深く考えていかなければならない時代がきました。

自然科学的ロハスでは無い気がします。ロハス的感性を越えないといけないだろうと思うわけで、ロハスの究極というか、超ロハスで無いと人間性も疑われてしまう場合だってあります。










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ノアの大洪水
2011/03/12 22:27:49 書庫 究極のロハス
昨日午後2時過ぎ、東北地方太平洋沖地震が発生しました。
被災者の方にはお見舞い申し上げます。

わたしも地震当初からずっとテレビの報道を追いかけていましたが、震度「7」ということが分かって「これは・・・」と思っていたら、津波の映像が飛び込んで来て、さすがに言葉を無くしてしまった。

映像と範囲の広さを見れば一万人ぐらいの死者が出ているだろうと思っていたので、「どこどこで誰かが足の骨を折ったそうです。・・・」みたいな寝ぼけた報道をどんどん流しているマスコミと言うのはどうしてもこうもバカなんだろうかと感じた。

夕方になると、さしたる人的被害の無い東京都心の帰宅難民の話題に移ってみたり、相変わらず一人二人の被害者の報道をしてどうするんだと言う感じがつくづくしていました。

そしたら1日以上も経って、いましがた、南三陸町一万七千人のうち一万人が安否不明だという報道が流れた。30時間も経って、今頃こんな大災害状態に気が付くのだから、如何に日頃から平和ボケし、飲めや歌へで浮かれているかをさらけ出した感じがします。

津波の被害がとにかく凄まじいものでしたが、元は地震です。そして地震の直接要因はプレートの移動ではあるけども、それを誘発させる最大のものは、大地の上に住んでいる、人間の波動の荒さが第一原因だと言っています。自然界と人間は別個に存在しているものではなく、人間が雑になり過激になり、自己主張が激しくなり、無責任な政治、イジメやお笑い、浮かれ人間が増殖すればするほど、天災は牙を剥いて襲ってくると言われます。

さすがにその光景を見れば、浮かれている場合じゃないことも分かってきます。神様がいるならどうしてこんな悲劇が起きるのかと言うかもしれないですが、存在するから起きるのだと思ったほうがいいと思うのです。魂は不滅ですから、こういう現象を通じて人間の絆だとか助け合いの大切さに気が付くしかありません。と同時に科学思想の傲慢さに気が付く必要もあります。

携帯も、インターネットも何の役にも立ちませんでした。「一万人も安否不明な町があるらしい・・・」という情報が、1日以上経ってから分かってくる程度のレベルなのですから、如何に科学の脆弱ぶりが露呈しています。

避難しなさいと言うのは簡単ですが、寝たきり老人や介護老人等果たして避難させられるかです。病院だってバッテリーが切れたらもうOUTです。

こうもコテンパンにやられたら、自己主張する気にもなりません。政治家も一夜にして大人しくなりました。

だけどもこれは日本だからまだいいのであって、いずれロシア、中国、アメリカ、ヨーロッパも同規模の洗礼を受ける感じがします。行き過ぎた経済至上主義、地球温暖化を無視していると、この現象が世界規模で起きてくると思われる。

















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死んだら無になるのか?
2010/08/02 21:58:27 書庫 究極のロハス


現代科学では、死ねば自分はゼロになると見ているのですが、ゼロになるんだったら、みんな自殺したらどうかと思う。生きる苦労をするよりも苦労の無いゼロになったほうが楽なんじゃないだろうか?

長生きして体の痛みや死の不安、あるいは孤独の不安を抱きながら生きているのが普通です。楽しいことや幸福な出来事より、難儀なことや苦しいことのほうが時間的に遥かに多いのだから、死んで自分が完全消滅するなら、ことさらに生きようとするのは浅はかな人間だともいえる。

あの世もある、来世もあると思えるから生きることが辛くても、最後の最後まで努力していく理由が鮮明になるもので、そういう意味で人生1回限りという観念では、道徳的に生きる価値を説得力を持って説明することは出来ないだろうと思われる。

死んで無になるんだったら、良いことをする理由もあまりないし、努力する理由もほとんどない。100名人を殺しても、慎み深く生きても、最後は同じ結末の死で終わるわけですから、これじゃ存在する価値が良く分からなくなってしまう。

病気を治そうとして苦労すること自体、空しく儚い。楽になりたいなら、二度と目覚めないほうがいいし、早く死んだほうが一番楽なはずです。

願望と現実が破たんしているとしか言いようがない。魂も否定しあの世も来世も否定し、そして神を否定していくなら、苦しい環境の中で懸命に生きる必要はないのに、どうしてジタバタしながら生きているのだろうか?
一番楽なことは注射でも打って早く死ぬことだし、唯物思想を信じるのであれば、そう思うことが一番論理的です。

確かに人生には楽しみや感動もありますが、時間量で考えてみれば、感動のためのわずかな時間のためにどれほど難儀し苦しんでいるだろう?それでもなお且つ執念深く生きるというなら、馬鹿としか言いようが無いじゃないですか?

ただ骸骨が動いているに過ぎず、石ころが時間の流れで転がっているような運命でしかない。死んでゼロになるなら、本当は生きている価値もゼロではないのか?ただ狂人が徘徊しているのと変わらない。

でありながら、生きることの価値をあれこれ語ろうとする。生きていればそのうちイイことがあるさというのですが、そのうちという以上、普段は苦しいという証明になるでしょう。どうしてわずかな感動のために苦労しなければならないのでしょうか?それこそ潔く死んでいったほうが遥かに楽なのにです。

この疑問の真意はこういう理由になります。
現代科学の唯物思想に染まってあの世も神も否定しているのが今の日本人ではあっても、本能ではそうではないために、生きようとするということでしょう。

数十年の頭脳では魂を否定しようとするのですが、永遠に生きてきている本当の自己(魂)の、微かな記憶が本当の「永遠」を望んでいるからだと思われる。
永遠の愛、永遠の勝利、永遠の魂、永遠の国・・・死んでゼロになるならそんな存在しない世界を求めるはずは無いのに、感情や本能はそういうわけにはいきません。家族が死んでもやはり生きていて、天国から見ていると考えようとします。そうではないですか?

葬儀でも、死んだ人に対して語りかけますが、どうしてそんな無駄なことをするのでしょうか?近しい人が死んだら、やはり次元の違う世界に旅立って、そこから自分を見守ってくれているんだと考えるのが常識的ですらあります。

しかも自分の葬式にこだわる人がほとんです。死んで消えてなくなるなら、死後のことをどうして心配するのだろう?お葬式の生前予約する人の多くは、自分の死後ですら見栄をはっているから救いようがありません。

つまり単純に人間はモノだとは思いたくは無いでしょう。現代人は、人間は物質の塊だと思想教育を受けたわけですが、一方で「そうではない、人間は心なのだ!」と分けのわからない破たんした論理を持って生きています。

こういう中途半端な思想で生きるから、いつまでも悩み苦しんでいるのだろう。確固たる哲学がありません。神は存在する、あの世も存在する、自分の魂も永遠であると思えた人のみ、成長していく資格を持つのであって、この世しか信じない人は、冗談抜きで何の意味もない人生を歩いていると、古今東西の聖者たちは語っている感じです。

彼らが言うには、この世は成功するためにあるのでもなく、楽になるためでもなく、自分が勝利するためでもなく、もちろん人前で威張るためでもなく、遊び呆けるためでもなく、人から拍手喝さいを得るためにあるのでもなく、やりたいように生きるためでも無いという。

苦しくてもいいのです。環境が悪くても、運が悪くても、親がヒドくてもいいのです。見た目が悪くても、体が不自由でも、頭が悪くても、常に貧乏でもいいのです。そういう中で、善意を捨てずにどれだけ善意に生きられるかを神様がテストしているだけだと思えるかどうか?

だから善意の深い人ほど華やかな人生は望まないという。勝ち組みといった冷たい世界は求めないでしょう。いつも苦しい人の立場に立って生きようとします。だからキリストは、針の穴をラクダが通るよりもなお、金持ちが天国の門をくぐることはあり得ないと語っている。

アメリカの富豪たちが寄付の精神を強く持っているのも、キリストの言葉による感じです。








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