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日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
繁栄の福音ってどうよ?(2)
2016/09/24 13:22:34 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 一般
前回、繁栄の神学の問題点について書きました。
英語のサイトですが、さらに詳しく書いてある記事がありましたので、ご紹介します。

Relevant:http://www.relevantmagazine.com/god/worldview/prosperity-gospel-creates-poor-christians

(以下、私訳)

今年の初めごろ、テレビ伝道者クレフロ・ダラー師が6500万ドル(約70億円)もする自家用機を購入するために資金を造成していたということで、ネットが炎上する騒ぎがあった。ダラー師はその要求をあきらめるどころか、最近になり、彼を批判した人々は聖書を理解していないのだと主張している。

 

しかし、ダラー師が「繁栄の福音」を唱えた最初の牧師では決してない。今週初めに、コメディアンのジョン・オリバー氏は彼の番組である「ラストウィーク・トゥナイト」にテレビ伝道者たちを招いた。彼らは、神は宣教に献げる人には豊かに報いを与えるということを信徒たちに約束する「種の信仰」というアイデアを推し進めている人々である。

 

この種類の教役者たちは数十年にわたりキリスト教の上流階級に浸透していった。中庸に生きる代わりに、彼らが自家用機を乗り回し、高価なスーツを身に着け、あるいは何百万ドルもする家に住んでいるのを我々は目にするのである。

 

これらの説教家たちは、流暢でカリスマ的なメッセージを発する。「神は従う者に経済的な繁栄を獲得させ、快活な健康を体験させ、心地よい生活を送らせることを望んでおられる」と。

 

「あなたの語った通りになる(Name it; Clame it!)」というのが彼らのいわば呪文である。神が与えようとしている素晴らしいものを受け取れるかどうかは、それが儲けのある仕事であれ、銀行口座の残高の増加であれ、肉体的な癒しであれ、完全にあなたの信仰(時としてそれはあなたが最初にいくら献げる意思があるかによって表される)次第というわけである。

 

これらの説教家たちは、信仰はいわば「天国のお金」であると主張する。それは神を動かすのだと。だから、私たちの天の特権を手に入れる方法は、私たちが自分自身の内側を探り、すべての不信仰を根こそぎ抜いてしまうことであるとする。

 

この神学には果てしない嘘がある。誤った希望、ゆがんだ現実、欲望的な思いという結果をもたらす。

 

神はご自身に従うものに決して経済的な豊かさを約束していない。使徒パウロはエペソの教会に対してこの点に言及し、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(Iテモテ6:10)と警告している。

 

イエスは私たちの(願いをかなえてくれる)精霊となるために十字架で死なれたのではない。イエスは、お金そのものが悪いわけではないと同時に、お金や物を持ちすぎることが私たちを危険に陥れることをご存じである。それゆえに、イエスは彼の弟子たちに「天に宝を積みなさい」とお命じになったのである。

 

また、オリバー師が指摘しているように、繁栄の福音の教師たちはよく、自分たちのミニストリーに献金すれば経済的な祝福に預かるとリスナーたちに約束する。「種を蒔く」ことはあなたの小切手帳を空にするために語られる美辞麗句なのである。この陰謀は誰かの金庫をいっぱいにするのであって、あなたの金庫ではない。

 

繁栄の福音では、痛みや苦しみはクリスチャンの生活には存在すべきでないと教える。が、現実はそうではない。

 

ダラス・ウィラード師は現実について、「あなたが間違ったことによって陥ってしまったもの」であるとしてそれを否定した。しかし現実というものは、私たちがどれだけ信仰を持っていたとしても、繁栄の福音の野望に満ちた考えをすべて黙らせるほど強力である。

 

イエスを受け入れることは、痛みから完全に解放される人生への切符ではない。痛みや苦しみの現実を受け止めようとしないような神学などまったく言語道断である。

 

ジョン・パイパー師が語っている。「普通のキリスト教は痛みを伴う。悲しみがあり、しかし常に喜びがある。」私たちは神が究極的にこの地上または来るべき世において、私たちを苦しめるものから回復させてくださることに信頼を置く。後者を神が選んだとしても、それは神の栄光のためなのである。

 

「そればかりではなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3−5)

 

繁栄の福音の完全なる皮肉は、それが貧しいクリスチャンを生み出しているということである。繁栄の神学は私たちから神の真の祝福を奪い取ってしまう。なぜなら、それは最初から決まっている結果の中にだけ不屈の希望を作り出しているからである。あなたは全宇宙の創造者が、私たちの祈りに応えて小切手を書く(=支払いをする)義務を負っているとお感じになっていると想像できるだろうか?

 

神は私たちが天の銀行口座を信仰で満たしているから責任を果たすわけではない。むしろ、神の子としての永遠の命という究極的な(私たちが決して自分の力で得ることのできない)贈り物を与えられるのである。

 

私たちの信仰に従って神が私たちを祝福してくださるのを待つというだけの有害な繁栄の神学に身を委ねるのではなく、真の福音に対して感謝の心を耕すべきである。感謝は、神がすでにどれだけ私たちを祝福してくださっているかということに私たちの目を向けさせてくれる。感謝はまた他の贈り物に気づかせる新たな機会となる。なぜならそれは、ある状況下で、神が何をしなければならないかではなく、神がどのように働きたいと願っておられるかということについて大きな期待を抱かせてくれるからである。

 

感謝は状況の変化には決して左右されない。それはその人次第である。真の信仰は、たとえ天国のこちら側では望んだ結果が見えないときでも、キリストの愛のご性質とご人格に信頼することである。

 

もちろん、だからと言って私たちは信仰による大胆な祈りをおろそかにすべきではない。なぜなら御霊は関係を修復し、正義を浸透させ、汚れたものを清くする働きを今なお続けておられるからである。私たちの欠点を癒し、経済的な祝福を与えられるかもしれない。

 

いずれにせよ、私たちの霊的な生活が豊かであるゆえに、私たちの心は常に喜ぶことができる。たとえ苦しみの中でも喜びを叫ぶことができ(ヤコブ1:2)、艱難の中でも平安があり(ヨハネ16:33)、来るべきより素晴らしい世に信仰を持つことができるのである(ヘブル11:16)。



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繁栄の福音ってどうよ?
2016/09/02 21:45:45 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 キリスト教
久しぶりの投稿です。
いつもながら無精者ですみません・・(><)

「繁栄の福音」と言われる教えがあります。
すごく簡単に言うと、

「疑うことなく心から神を信じれば、経済的、物質的な豊かさや健康を手に入れることができる」

というものです。
とても分かりやすいですね。
早い話が、ご利益主義的キリスト教です。

結論を先に言うなら、小禄バプテスト教会はこの教えを支持しません。
それどころか、このような誤った世界観を排除します。
でも、もう少し説明が必要ですね。

確かに聖書には、神を信じる信仰の大切さがふんだんに書かれています。
同時に、神を呪い神に背を向ける生き方が、結果的に不幸な結末になると警告しています。
というか、私は牧師ですから、当然信徒の皆さんに信仰をしっかり持つように勧めるわけです。
そして、神は信じる者を決して見捨てたり路頭に迷わすことはなさらないということを、講壇からいつも語らせていただいています。

ですが、上に書いた繁栄の福音はそれとは別物です。
聖書は明確に、どんな信仰者であっても試練や迫害に遭うと語っています。
経済的困難や健康上の問題、人間関係のトラブルなど、現実に生きている中で当たり前に通らされるわけです。
でもイエスを主と信じる者にとって、それらの苦難はもはや意味が違ってきます。
神が私たちを愛するがゆえに、そして永遠に神と住まうという究極の目的ゆえに、私たちは苦しみをも価値あるものとすることができるのです。
私たちは苦しみや痛みが完全に去るように祈るのではなく、これらを乗り越える力が与えられるように、そしてこれらを通して神にますます近づくことができるように祈ります。

繁栄の福音のもっとも大きな問題は、経済的困窮や病気は神からではなくサタンからのものであると考えることです。
私たちを幸せにしようとされる神がそのような目に私たちを遭わせるわけがない、と言うのです。
もし私たちがそのような苦しみに遭っているとすれば、それは信仰が欠けているからだ、あるいは何か重大な罪を犯しているからだ、完全に神を信じればそんなことに遭うはずがない、として、現実の困難の中にある人たちを責めます。
これは大変不幸な過ちであり、間違った教えです。
このような教えは、問題を抱えている人たちをさらに追い込み、解放どころか束縛してしまい、自責の念で一杯にします。
私たちを救うため、自由にするため、そして平安を与えるために主イエス・キリストが来てくださり十字架にかかって下さったにもかかわらず、不安と恐れと罪悪感に満ちた信仰生活を送らなければならないとしたら、これほど皮肉なことはありません。

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)

このテーマについて、数回にわたって書いてみたいと思います。
ただし、いつになるかわかりませんが・・








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3.11に思う
2016/03/11 17:06:11 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 時事ネタ
2011年3月11日。
あの日、テレビの映像から流れてきた凄まじい惨状は、とてもこの世のものとは思えませんでした。
テレビにくぎ付けになりながら、こんなことが今日本で起きていることに全く現実感を感じませんでした。

その次の日だったでしょうか、一本の電話をもらいました。
ロサンゼルスに住む、古いアメリカ人の友人からでした。
もう十数年も音沙汰のなかった人でしたが、震災と津波の報道を見て何とかして私に連絡をしてきたかったようです。
電話口で彼は日本のために祈っていること、何か支援ができないか考えていることを伝えてくれました。
そして次のようなことを、言葉を選びながら私に言いました。
「巌、これは神さまからの日本に対するメッセージだと思う。」
私は、彼の優しさと気遣いに心から感謝しつつも、「この災害が日本に対するメッセージだと思う」と言う彼の言葉には違和感を感じました。
本心では、「この震災は、イエス様を信じようとしない日本に対する神の裁きだ」と言いたかったのでしょう。

何か悲劇的な災害が世界のどこかで起きるたびに、これは神からの警告であるとか、神の裁きである、と言う人たちがいます。
もちろん、神の究極的な意志は私たち人間にはわかり得ませんから、そのような可能性がゼロとは言えないでしょう。
しかし、苦難にあった義人ヨブであれ、ヨハネ9章に出てくる生まれつき目の不自由な人であれ、ルカ13章のピラトに処刑されたガリラヤ人であれ、シロアムの塔の下敷きになった18人の人であれ、その災いが神の裁きでないこと、つまり彼らの罪や不義が原因でなかったことは明らかです。
昨年4月25日に起きたネパール大地震の時もそうでしたが、このような災害で亡くなる人の中には、あらゆる宗教の人たちが含まれています。
もちろん多くのクリスチャンも犠牲になりました。
神の裁きであるなら、なぜ信仰を持っていた人たちが死に、そうでない多くの人たちが助かるのか説明がつきません。
災害を神の裁きと宣言する時、私たちは被災者を二重の苦しみに合わせているのだと知らなければなりません。
一つだけ言えることは、あらゆる出来事は神の御手の中にあり、神の許しの中で起きているということ、究極的にはその一つ一つに意味があるということです。

2011年の11月に私は宮城県の気仙沼に行き、そこで2か月間滞在して教会を中心に被災地支援のボランティア活動をしました。
被災の現場の凄まじさもさることながら、被災した人々が語る生々しい体験談を聞くたびに、私は心が締め付けられ、涙が流れることもしばしばでした。
「辛かったですね・・・」
本当にそのような言葉しかでませんでした。
なかなか光が見えてこない、明日どうなるかもわからない中で、彼らは呻きながらも必死になって生きていこうとしていました。
私は支援物資を届けたり、支援コンサートのコーディネートをしたり、ささやかなお手伝いをしましたが、いわゆる「伝道活動」はしませんでした。
彼らのことを忘れないこと、祈り続けること、共にいること、それが私にできることではないか、と考えたからです。

あれから5年が経ち、私は本当に彼らのことを忘れなかったでしょうか。
本当に恥ずかしいことに、この1年間被災者のことを思い、彼らのために祈ったことは数えるほどしかありませんでした。
衝撃的な被災の現場を見、被災者の話に幾度となく涙したことすらも、記憶のかなたに押し込まれつつあることにはっと気づかされます。
あの気仙沼で出会った人たちは、どうしているでしょうか。
復興支援屋台村で一生懸命町おこしをしようとしていた人々、幼稚園の園児やご家族、仮設住宅で出会った人々・・
5年経ってもまだまだ復興は道半ばです。
福島第一原発の事故もまだまだ終息していません。
被災地に思いを馳せながら、今日は祈りを捧げる日にしたいと思います。


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聖書は科学の教科書?
2016/02/25 15:40:13 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
昨日の午前の「聖書の学びと祈り会」のことです。
(小禄バプテスト教会では、毎週水曜日午前10時半と午後8時に聖書の学びと祈り会を行っています。)
レント(受難節)のただ中にあるので、テーマはイエスの十字架の言葉についてでしたが、いつものようにそこからいろんな質問や意見が飛び出して、盛り上がりました!

その中で、子育て真っ最中のあるママさん信徒が、最近小1の息子がドキッとするような質問をするので困っているという話になりました。
宇宙や動物などに関心があるとのことで、「恐竜はノアの箱舟に乗ったの?」とか「ぼくは進化論は本当だと思う。」とか言ってくるとのこと。
ママにしてみれば、毎週教会学校で聖書の話、イエス様の話を聞いているのに、この年齢でそんなことに疑問持っちゃって、この子大丈夫かしら?と不安に襲われたらしいのです。
また、どう答えていいかよくわからないということも口にしていました。
純粋にイエス様を信じてキリスト者として育ってほしい、というママの気持ちを思うと、不安になるのも無理なからぬこと。

でも、私はこのような疑問を持つことは、本当に大切なことだと思いますし、小学一年生ですでに科学的思考ができているのは実に立派です。
将来が楽しみです。

信仰は決して何も疑問を持たないことではありません。
疑問を持たない信仰ほど危険なものはありません。
最近読んだ工藤信夫先生が書いた本「真実の福音を求めて」の中に、「健全な信仰というのは多少なりとも不信仰を含むものではないだろうか、いや、不信仰があって初めて信仰は次の段階に進むのではないだろうか。」というくだりがあり、私は「我が意を得たり」と思いました。
聖書に書かれてあることでも、現代の私たちの感覚からすると受け入れ難いような内容があったり、常識から外れていると思われるような教えもあります。
それについて、無理やりつじつまを合わせてわかったふりをするのでなく、わからないことはわからないとする勇気や、様々な違う意見にあたってみることが大事だと思います。
人間に与えられている能力には限界がありますから。

先ほどのお子さんの疑問に話を戻すと、創世記には確かに神による創造の物語が書かれていますが、小学校の理科の教科書を含め世の中の本のほぼすべてに、生物の進化は当たり前のこととして書かれています。
つまり、世の中一般の常識から見ると、創造論と進化論は対等でも何でもなく、創造論は一部の偏狭な宗教家たちが信じているトンデモ系の疑似科学と見られているのです。
そんな状況ですから、先ほどのお子さんの疑問はものすごくまっとうな疑問なんですね。

そもそも、創世記をはじめ、聖書はすべて21世紀の科学の教科書として書かれたわけでは決してありません。
聖書は神が私たちを愛しておられること、イエス様を通して救われることがその教えの中心であり、そのことを伝えようとして書かれた書物です。
確かに聖書は神の言葉であり、神の霊感を受けて書かれていますが、だからといって科学的にすべての記述が正しいとは言えないのです。

一例として、レビ記11章を見てみます。
そこには反芻する動物のことが書かれていて、ラクダやタヌキやウサギも反芻すると書かれていますが、実際には反芻しません。
また鳥類のリストにこうもりが載っていますが、もちろんこうもりは鳥類ではなく哺乳類です。
さらに昆虫が4つ足であると書いていますが、昆虫の足が6本であることは小学生でも知っています。
つまり、レビ記11章には明らかに科学的に誤りがあります。
では、聖書は間違っているのでしょうか?
神の言葉とすべきではないのでしょうか?

やはり聖書は正しく、神の言葉であると私は信じます。
それは聖書だけが私たちを神の道に導く唯一の規範だからです。
しかし現代の科学の教科書としては正しいとは言えません。

ではやはり、創造論は間違いで進化論が正しいのでしょうか?

ふふふ・・・・・私は創造論を信じていますよ。

「えええっ??聖書は科学の教科書ではないって言ったじゃないですか??」
その通りなんですが、私は「神がすべての種類の動物・植物を種類に従ってお造りになった」という点で完璧に創造論者なんです。
でも創造科学論者ではありません。
なにかというとですね、創世記1章に書かれてある「1日」は今と同じ24時間であるとか、地球は誕生してまだ6000年しか経っていないとか、最初地球は水蒸気の雲に覆われていたので温暖であったという説明は信じていないのです。
これは創世記を無理やり科学の教科書に見立てこじつけているに過ぎないと思います。

私が創造論を信じる理由は単純に自然の驚異というか神秘に心動かされるからです。
例えば次の写真なんかどうです?


ムラサキシャチホコという日本にも生息する蛾の仲間です。
一体どんな構造をしているのだと思うかもしれませんが、このくるっと巻いたようなデザインは、実は羽の表面に描かれた模様なんですね。
どう見ても3Dにしか見えない。
これぞ究極の擬態です。
とにかくに不思議すぎます。
こんなのを見せられると、私は「わーお、神さまってグレイト!!!」と思っちゃうわけです。
進化論で説明してみろってんだ、えっへん!!と威張りたくなります。
やっぱり神さまがそれぞれの生物を創造されたんだな、と単純に思うのです。
私はそれで納得しています。(笑)
創造科学なんてものを持ちだすから、かえってキリスト教が偏屈な宗教として誤解されていたりして残念です。

このテーマとても楽しいです。
また気が向いたときに書きます。


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What is 権威?
2016/01/30 18:57:41 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
明日の礼拝では、ルカによる福音書4章31節以下から、「イエス様の権威」について語る予定です。

教会で「権威」という言葉が使われるとき、その権威がどこに付随しているのか注意深く見てみる必要があります。
「神の権威」だとか「イエスの御名の権威」という用い方は聖書的に問題ありませんが、「牧師の権威」とか「霊的権威」いう使い方が頻繁になされると、その教会では「権威」が乱用されている可能性があります。

私は牧師ですが、牧師という役職そのものに何かの権威があると思ったことはありません。
確かに教会という組織の中では代表役員であり、「先生」などと呼ばれ、毎週講壇から説教をします。
困った人たちや傷ついている人たちのカウンセリングをしたり、問題解決や癒しのために祈ることもします。
でも、あくまで私は一クリスチャンであり信徒です。
牧師という肩書を除けば、他の信徒たちと何ら変わることはありません。
罪人であり、弱さを持ち、悩み、傷つきます。
多くの人に祈って支えていただかなければ、到底私など牧師を続けていくこともできない欠点だらけのものです。

ところが、時として「牧師は神によって油注がれた霊的な権威であるから、牧師には絶対的に従わなければならない。」と豪語する牧師がいると聞きます。

「ひや〜っ!!」ってなもんです。
私のようにあまりにも普通のおっさん的な牧師にはまず言えない言葉です。
私の霊的レベルが低すぎて言えない、というのもありますが(笑)、これが聖書的であるとは到底思えないので言えない、というのもあります。

上記のような言葉を用いる牧師がよく根拠として取り上げる御言葉は、ローマ13:1−2です。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

そして、このことをよく理解するために、イスラエルの初代の王様サウルと2代目のダビデの関係が譬えとして語られます。
サウルは神によって選ばれ油注がれましたが、重大な罪を犯したために干されます。
その後ダビデという若者を神さまは選ばれ、王として建てられますが、その過程でダビデはサウル王に命を狙われるのです。
しかし、サウル王が油注がれた人物であることを知っているダビデは、たびたび彼をやっつけるチャンスを得ますが、神を恐れて決して手を下さず、彼に背かないのです。

このサウル王と現代の牧師を重ねるとどうなるでしょうか。
つまり、サウルのような悪い王であっても、ダビデは最後まで従順に従ったのであるから、教会においては、たとえ牧師が間違ったことをしたとしても、牧師は神に選ばれた霊的権威であり油注がれた者であるから、信徒は従わなければならない、と結論付けるのです。

いやはや、恐るべき論理の飛躍です。

まず、ローマ書の言葉ですが、「上に立つ権威」は直接にはローマ帝国のことを指していますね。
もちろんそこから派生して様々な権威を想定することができますが、絶対に教会の牧師ではありません。
そもそも牧師は別に信徒の上に立っているわけではありません。
牧師が霊的に他の信徒より上であることを示す御言葉はありません。
サウル王を牧師になぞらえることなど、さらにもってのほかです。
なんでイスラエルの王と教会の牧師を横に並べるのでしょうか?
歴史も意味合いも役目も背景も何もかも違いすぎます。
このような御言葉を引き合いに出して、「控えろー、皆の者!!この紋所が目に入らぬか〜っ!!」みたいに、牧師がありもしない権威を教会で振りかざすことは、絶対にあってはいけません。
そのような間違った権威のもとで服従を強いられ、大きな傷を負ってしまった人たちがたくさんいて、本当に残念に思います。

牧師は神に仕え、教会に仕え、信徒たちに仕える僕にすぎません。
イエスご自身が「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのである。」と言われたことをいつも思い出し、謙遜に主のご用にあたっていきたいものです。
私たちの権威は、イエス様の権威、しかも王でありながら僕として来られた方の権威があれば十分なのです。




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