ごーやーどっとネット沖縄  [PR]世界中の美女たちが沖縄に集結! こんにちは ゲスト さん。 ログイン・ブログをはじめる  
日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
3.11に思う
2016/03/11 17:06:11 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 時事ネタ
2011年3月11日。
あの日、テレビの映像から流れてきた凄まじい惨状は、とてもこの世のものとは思えませんでした。
テレビにくぎ付けになりながら、こんなことが今日本で起きていることに全く現実感を感じませんでした。

その次の日だったでしょうか、一本の電話をもらいました。
ロサンゼルスに住む、古いアメリカ人の友人からでした。
もう十数年も音沙汰のなかった人でしたが、震災と津波の報道を見て何とかして私に連絡をしてきたかったようです。
電話口で彼は日本のために祈っていること、何か支援ができないか考えていることを伝えてくれました。
そして次のようなことを、言葉を選びながら私に言いました。
「巌、これは神さまからの日本に対するメッセージだと思う。」
私は、彼の優しさと気遣いに心から感謝しつつも、「この災害が日本に対するメッセージだと思う」と言う彼の言葉には違和感を感じました。
本心では、「この震災は、イエス様を信じようとしない日本に対する神の裁きだ」と言いたかったのでしょう。

何か悲劇的な災害が世界のどこかで起きるたびに、これは神からの警告であるとか、神の裁きである、と言う人たちがいます。
もちろん、神の究極的な意志は私たち人間にはわかり得ませんから、そのような可能性がゼロとは言えないでしょう。
しかし、苦難にあった義人ヨブであれ、ヨハネ9章に出てくる生まれつき目の不自由な人であれ、ルカ13章のピラトに処刑されたガリラヤ人であれ、シロアムの塔の下敷きになった18人の人であれ、その災いが神の裁きでないこと、つまり彼らの罪や不義が原因でなかったことは明らかです。
昨年4月25日に起きたネパール大地震の時もそうでしたが、このような災害で亡くなる人の中には、あらゆる宗教の人たちが含まれています。
もちろん多くのクリスチャンも犠牲になりました。
神の裁きであるなら、なぜ信仰を持っていた人たちが死に、そうでない多くの人たちが助かるのか説明がつきません。
災害を神の裁きと宣言する時、私たちは被災者を二重の苦しみに合わせているのだと知らなければなりません。
一つだけ言えることは、あらゆる出来事は神の御手の中にあり、神の許しの中で起きているということ、究極的にはその一つ一つに意味があるということです。

2011年の11月に私は宮城県の気仙沼に行き、そこで2か月間滞在して教会を中心に被災地支援のボランティア活動をしました。
被災の現場の凄まじさもさることながら、被災した人々が語る生々しい体験談を聞くたびに、私は心が締め付けられ、涙が流れることもしばしばでした。
「辛かったですね・・・」
本当にそのような言葉しかでませんでした。
なかなか光が見えてこない、明日どうなるかもわからない中で、彼らは呻きながらも必死になって生きていこうとしていました。
私は支援物資を届けたり、支援コンサートのコーディネートをしたり、ささやかなお手伝いをしましたが、いわゆる「伝道活動」はしませんでした。
彼らのことを忘れないこと、祈り続けること、共にいること、それが私にできることではないか、と考えたからです。

あれから5年が経ち、私は本当に彼らのことを忘れなかったでしょうか。
本当に恥ずかしいことに、この1年間被災者のことを思い、彼らのために祈ったことは数えるほどしかありませんでした。
衝撃的な被災の現場を見、被災者の話に幾度となく涙したことすらも、記憶のかなたに押し込まれつつあることにはっと気づかされます。
あの気仙沼で出会った人たちは、どうしているでしょうか。
復興支援屋台村で一生懸命町おこしをしようとしていた人々、幼稚園の園児やご家族、仮設住宅で出会った人々・・
5年経ってもまだまだ復興は道半ばです。
福島第一原発の事故もまだまだ終息していません。
被災地に思いを馳せながら、今日は祈りを捧げる日にしたいと思います。


コメント(0)
トラックバック(0)

聖書は科学の教科書?
2016/02/25 15:40:13 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
昨日の午前の「聖書の学びと祈り会」のことです。
(小禄バプテスト教会では、毎週水曜日午前10時半と午後8時に聖書の学びと祈り会を行っています。)
レント(受難節)のただ中にあるので、テーマはイエスの十字架の言葉についてでしたが、いつものようにそこからいろんな質問や意見が飛び出して、盛り上がりました!

その中で、子育て真っ最中のあるママさん信徒が、最近小1の息子がドキッとするような質問をするので困っているという話になりました。
宇宙や動物などに関心があるとのことで、「恐竜はノアの箱舟に乗ったの?」とか「ぼくは進化論は本当だと思う。」とか言ってくるとのこと。
ママにしてみれば、毎週教会学校で聖書の話、イエス様の話を聞いているのに、この年齢でそんなことに疑問持っちゃって、この子大丈夫かしら?と不安に襲われたらしいのです。
また、どう答えていいかよくわからないということも口にしていました。
純粋にイエス様を信じてキリスト者として育ってほしい、というママの気持ちを思うと、不安になるのも無理なからぬこと。

でも、私はこのような疑問を持つことは、本当に大切なことだと思いますし、小学一年生ですでに科学的思考ができているのは実に立派です。
将来が楽しみです。

信仰は決して何も疑問を持たないことではありません。
疑問を持たない信仰ほど危険なものはありません。
最近読んだ工藤信夫先生が書いた本「真実の福音を求めて」の中に、「健全な信仰というのは多少なりとも不信仰を含むものではないだろうか、いや、不信仰があって初めて信仰は次の段階に進むのではないだろうか。」というくだりがあり、私は「我が意を得たり」と思いました。
聖書に書かれてあることでも、現代の私たちの感覚からすると受け入れ難いような内容があったり、常識から外れていると思われるような教えもあります。
それについて、無理やりつじつまを合わせてわかったふりをするのでなく、わからないことはわからないとする勇気や、様々な違う意見にあたってみることが大事だと思います。
人間に与えられている能力には限界がありますから。

先ほどのお子さんの疑問に話を戻すと、創世記には確かに神による創造の物語が書かれていますが、小学校の理科の教科書を含め世の中の本のほぼすべてに、生物の進化は当たり前のこととして書かれています。
つまり、世の中一般の常識から見ると、創造論と進化論は対等でも何でもなく、創造論は一部の偏狭な宗教家たちが信じているトンデモ系の疑似科学と見られているのです。
そんな状況ですから、先ほどのお子さんの疑問はものすごくまっとうな疑問なんですね。

そもそも、創世記をはじめ、聖書はすべて21世紀の科学の教科書として書かれたわけでは決してありません。
聖書は神が私たちを愛しておられること、イエス様を通して救われることがその教えの中心であり、そのことを伝えようとして書かれた書物です。
確かに聖書は神の言葉であり、神の霊感を受けて書かれていますが、だからといって科学的にすべての記述が正しいとは言えないのです。

一例として、レビ記11章を見てみます。
そこには反芻する動物のことが書かれていて、ラクダやタヌキやウサギも反芻すると書かれていますが、実際には反芻しません。
また鳥類のリストにこうもりが載っていますが、もちろんこうもりは鳥類ではなく哺乳類です。
さらに昆虫が4つ足であると書いていますが、昆虫の足が6本であることは小学生でも知っています。
つまり、レビ記11章には明らかに科学的に誤りがあります。
では、聖書は間違っているのでしょうか?
神の言葉とすべきではないのでしょうか?

やはり聖書は正しく、神の言葉であると私は信じます。
それは聖書だけが私たちを神の道に導く唯一の規範だからです。
しかし現代の科学の教科書としては正しいとは言えません。

ではやはり、創造論は間違いで進化論が正しいのでしょうか?

ふふふ・・・・・私は創造論を信じていますよ。

「えええっ??聖書は科学の教科書ではないって言ったじゃないですか??」
その通りなんですが、私は「神がすべての種類の動物・植物を種類に従ってお造りになった」という点で完璧に創造論者なんです。
でも創造科学論者ではありません。
なにかというとですね、創世記1章に書かれてある「1日」は今と同じ24時間であるとか、地球は誕生してまだ6000年しか経っていないとか、最初地球は水蒸気の雲に覆われていたので温暖であったという説明は信じていないのです。
これは創世記を無理やり科学の教科書に見立てこじつけているに過ぎないと思います。

私が創造論を信じる理由は単純に自然の驚異というか神秘に心動かされるからです。
例えば次の写真なんかどうです?


ムラサキシャチホコという日本にも生息する蛾の仲間です。
一体どんな構造をしているのだと思うかもしれませんが、このくるっと巻いたようなデザインは、実は羽の表面に描かれた模様なんですね。
どう見ても3Dにしか見えない。
これぞ究極の擬態です。
とにかくに不思議すぎます。
こんなのを見せられると、私は「わーお、神さまってグレイト!!!」と思っちゃうわけです。
進化論で説明してみろってんだ、えっへん!!と威張りたくなります。
やっぱり神さまがそれぞれの生物を創造されたんだな、と単純に思うのです。
私はそれで納得しています。(笑)
創造科学なんてものを持ちだすから、かえってキリスト教が偏屈な宗教として誤解されていたりして残念です。

このテーマとても楽しいです。
また気が向いたときに書きます。


コメント(0)
トラックバック(0)

What is 権威?
2016/01/30 18:57:41 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
明日の礼拝では、ルカによる福音書4章31節以下から、「イエス様の権威」について語る予定です。

教会で「権威」という言葉が使われるとき、その権威がどこに付随しているのか注意深く見てみる必要があります。
「神の権威」だとか「イエスの御名の権威」という用い方は聖書的に問題ありませんが、「牧師の権威」とか「霊的権威」いう使い方が頻繁になされると、その教会では「権威」が乱用されている可能性があります。

私は牧師ですが、牧師という役職そのものに何かの権威があると思ったことはありません。
確かに教会という組織の中では代表役員であり、「先生」などと呼ばれ、毎週講壇から説教をします。
困った人たちや傷ついている人たちのカウンセリングをしたり、問題解決や癒しのために祈ることもします。
でも、あくまで私は一クリスチャンであり信徒です。
牧師という肩書を除けば、他の信徒たちと何ら変わることはありません。
罪人であり、弱さを持ち、悩み、傷つきます。
多くの人に祈って支えていただかなければ、到底私など牧師を続けていくこともできない欠点だらけのものです。

ところが、時として「牧師は神によって油注がれた霊的な権威であるから、牧師には絶対的に従わなければならない。」と豪語する牧師がいると聞きます。

「ひや〜っ!!」ってなもんです。
私のようにあまりにも普通のおっさん的な牧師にはまず言えない言葉です。
私の霊的レベルが低すぎて言えない、というのもありますが(笑)、これが聖書的であるとは到底思えないので言えない、というのもあります。

上記のような言葉を用いる牧師がよく根拠として取り上げる御言葉は、ローマ13:1−2です。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

そして、このことをよく理解するために、イスラエルの初代の王様サウルと2代目のダビデの関係が譬えとして語られます。
サウルは神によって選ばれ油注がれましたが、重大な罪を犯したために干されます。
その後ダビデという若者を神さまは選ばれ、王として建てられますが、その過程でダビデはサウル王に命を狙われるのです。
しかし、サウル王が油注がれた人物であることを知っているダビデは、たびたび彼をやっつけるチャンスを得ますが、神を恐れて決して手を下さず、彼に背かないのです。

このサウル王と現代の牧師を重ねるとどうなるでしょうか。
つまり、サウルのような悪い王であっても、ダビデは最後まで従順に従ったのであるから、教会においては、たとえ牧師が間違ったことをしたとしても、牧師は神に選ばれた霊的権威であり油注がれた者であるから、信徒は従わなければならない、と結論付けるのです。

いやはや、恐るべき論理の飛躍です。

まず、ローマ書の言葉ですが、「上に立つ権威」は直接にはローマ帝国のことを指していますね。
もちろんそこから派生して様々な権威を想定することができますが、絶対に教会の牧師ではありません。
そもそも牧師は別に信徒の上に立っているわけではありません。
牧師が霊的に他の信徒より上であることを示す御言葉はありません。
サウル王を牧師になぞらえることなど、さらにもってのほかです。
なんでイスラエルの王と教会の牧師を横に並べるのでしょうか?
歴史も意味合いも役目も背景も何もかも違いすぎます。
このような御言葉を引き合いに出して、「控えろー、皆の者!!この紋所が目に入らぬか〜っ!!」みたいに、牧師がありもしない権威を教会で振りかざすことは、絶対にあってはいけません。
そのような間違った権威のもとで服従を強いられ、大きな傷を負ってしまった人たちがたくさんいて、本当に残念に思います。

牧師は神に仕え、教会に仕え、信徒たちに仕える僕にすぎません。
イエスご自身が「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのである。」と言われたことをいつも思い出し、謙遜に主のご用にあたっていきたいものです。
私たちの権威は、イエス様の権威、しかも王でありながら僕として来られた方の権威があれば十分なのです。




コメント(0)
トラックバック(0)

ハロウィーン・・・
2015/10/27 13:20:58 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 キリスト教

もうすぐハロウィーンですね。
日本でもずいぶんこのお祭りが浸透し、今やバレンタインデーを凌ぐほど商戦が盛んにおこなわれているようです。

このハロウィーンに関して、悪魔崇拝と関連付けて異常なほど過剰に警戒をするクリスチャンの人たちがおります。
確かにオカルトチックな要素があるので、その部分は注意しなければならないと思います。
子どもを過剰に怖がらせるような演出はやめてほしいです。
でも、仮に子どもがその日に「魔女」の恰好をしたり、カボチャのお化け(ジョコランタン)を飾ったり、仮装パーティーに参加したとしても、それだけで彼らが言うように本当に何か「霊的な」悪影響を受けるのでしょうか。

そもそも私たちの日常は「非クリスチャン」的な出来事に囲まれています。
例えば、私たちが毎日いただくお米やお野菜などを生産している農家や販売しているお店の中には、他宗教を信じている人や無宗教の人たちがたくさんいるはずです。
日本の場合はほとんどそうだといってもいいでしょう。
すると当然、生産者が農作物の一部を彼らが信じる神様に捧げることもあるでしょう。
神社にお参りをして、作物が売れるようにお祓いをしてもらうこともあるでしょう。
そうなると、これらの農作物は「霊的に」悪影響を受けたわけです。

本当??

もし本当だとして、じゃあ霊的に悪影響を受けていないものを避けて、そうでないものだけを購入しようとしても、そんなこと絶対にできないことがわかります。
例として農作物を取り上げましたが、他の商品も同じです。
お店に入って一つ一つの商品のどれが霊的に悪くてどれが良いかなんて、見分けられないからです。
○○学会に関連する製品やお店なんて、いったいどれくらいあるのでしょうか。
私もよく利用する百円ショップなんかもそうですよね。

そう考えてみると、ハロウィーンをはじめ宗教的な背景を持つ地域のお祭りなどを意識して避けることができたとしても、そのような人たちが信じる、いわゆる「霊的な悪影響」を日常生活から完全に排除することは不可能なのです。

すると、「いや、ハロウィーンは悪魔崇拝であり、霊的な悪影響のレベルが違う!」と言う人がいそうですね。
でも、ハロウィーンに関わる人たちのどれくらいがいったい本当に悪魔崇拝をしているのでしょうか。
ほとんどの人は単にハロウィーンという名前で、わいわい騒いでいるにすぎません。
もっとも、それに乗じて羽目を外して他人に迷惑をかけたり、犯罪まがいのことが起こってしまうことは防がなければなりませんが、それはまた別問題です。
そのような恰好、そのような道具を用いただけで、悪魔に利用されているとか、キリストから離れているとか、ということになるならば、悪魔の力を過大評価していると言わざるを得ません。


前にブログで書いたように、私は神さまが悪魔より何百倍も力があり、神さまを信じる人たちは「圧倒的な勝利者」であると信じています。
なので、もしハロウィーンに少しでも関わっただけで悪魔の影響を受けるとするならば、讃美歌を少し聞いただけ、聖句を一部読んでみただけで、聖霊の圧倒的な力を受けて、人々はもっと簡単にクリスチャンになると思うのですが、現実はそうではないですね。

一例をあげてみます。
この前、たまたまテレビを見てたら、さだまさしのコンサートの模様が映っていました。
何万人の聴衆がいたでしょうか。
コンサートの最後に、ゲスト出演したアーチストたちと共にさだまさしが私も大好きな「風に立つライオン」を歌いました。
そしたら、その曲の中に使われている「アメージンググレース」をその何万人もの人たちが大合唱したんです。
感動しました!
教会ができないことを、さだまさしがやったのです!

でも、その人たちが讃美歌を大合唱したからと言って、彼らは神さまを礼拝したのだ、という人はいないでしょう。
「霊的に」よい影響を受けたのだ、という人もいないと思います。
このコンサートの後、みんながクリスチャンになったとは思えませんから。

それなのに、ハロウィーンに関わったというだけで、「あれは悪魔崇拝だ」となるのはどうなんだ、という話です。
避けるべきところは避けつつも、過剰に反応することで教会がおかしな目で見られることのほうを私は危惧します。

ちなみに、この前のサンデースクールでは、ハロウィーンにちなんだゲームを、ゲーム担当の姉妹がリードしました。
子どもたちは喜んで参加しました。
その後、特に悪霊の影響を受けていなさそうです。(笑)

過剰に反応する人たちからすると、卒倒しそうな話ですね。
でも、うちのサンデースクール、神様に本当に祝福されています!



コメント(0)
トラックバック(0)

赦すということ
2015/09/01 01:01:01 ブログカテゴリ 那覇市 | 書庫 聖書

昨日の礼拝では、マタイによる福音書18章21節以下をテキストとして、「赦しの奥義」というタイトルでメッセージをしました。
実に難しいテーマです。
というより、私がライフワークしているテーマの一つと言ってもいいかもしれません。

そうしたら、私がよく訪ねるサイトにアップされていた記事にびっくりしました。
まさにドンピシャそのテーマであったことと、書かれていることが私がまさに語ったことと非常に似ていたからです。
リンクを張りますので、ぜひお読みになってください。

http://fuminaru.blogspot.jp/2015/08/blog-post_30.html#links

私は「赦し」ということを講壇から語るのに非常に気を遣います。
それには理由があります。

「赦し」が必要とされる状況には、赦す側と赦される側が存在します。
状況次第では、これが「被害者」と「加害者」という関係になります。
ところで、教会では時折このような言葉を聞くことがあります。
「イエス様が私たちの罪を全部赦してくださったのだから、私たちも無条件に相手を赦さなければならない。赦さないことは罪である。」
クリスチャンの間で比較的よく読まれている信仰書にもそのようなニュアンスの書き方が見受けられます。

でも、ちょっと待ってください。
それはつまり、被害者にだけ気持ちや行動の変化を要求することになりますね。
それっておかしくないですか?
まずは加害者が謝罪や償いをして、被害者に赦しを請うように持っていくのが筋じゃないでしょうか。
つまり加害者が被害者に「悔い改める」ように勧告することも、教会がなすべき働きではないかと思うのです。
実際マタイ18章を1節から丁寧に読むと、赦すことの大切さと同じくらいかそれ以上に、弱い立場の人を躓かせることへの警告や罪を犯した人への悔い改めの促しが語られています。
義なる神さまは、人を躓かせたり傷つけた加害者にこそ、態度の変化を求められるのではないでしょうか。
神さまはいつも弱い立場の人たち、声を上げられない人たち、差別されている人たちの味方ですから。

もちろん赦すことは素晴らしいことです。
自分から自主的に、自分を傷つけた人を信仰によって赦すことができれば、なんと幸いでしょうか。
イエス様は私たちを愛してくださり、罪深い私たちのために死んでくださいました。
身代わりになったのですね。
私たちが払うことのできない罪の代価を、私たちに代わって支払ってくださったのです。
神によって赦されている、ということに感謝し、私も赦そう、という気持ちで生きていくことはクリスチャンンにふさわしい生き方でありますし、エフェソ書やコロサイ書にも「互いに赦しあいなさい。」と教えられています。

でも、それができないほどボロボロになった人がいる場合、その人に対して「赦しなさい」というのは酷です。
まずは、傷ついたその人に寄り添いその深い苦しみに共感していくことこそ、神の御心でありクリスチャンとして当然のあり方であると信じます。

なぜこのようなことを書くのかというと、カルトあるいはカルト的な教会で傷つけられた人があまりにも多く、またその多くが、「赦しなさい」という呪縛によって苦悶しているのを見てきているからです。
彼らは傷ついてその教会から出た後、癒しを求めて別の「福音的な」教会に行きますが、そこの牧師から「赦しなさい」と言われてさらに傷を深めてしまうのです。
教会が傷つけてしまうことほど悲しいことはありません。
教会こそ、最後の砦であるはずなのに・・・

なので、わたしは「赦し」を語る時はいつも以上に言葉に気を付けます。

もちろん、誤解のないように再度書きますが、イエス様の赦しは完璧です。
私の罪も赦されています!
そのことは何度も何度も講壇から語ります。
福音の神髄ですから。
そこは微塵にも疑ってません。
だからイエス様に感謝しても感謝しきれず、私は牧師をさせていただいています。

以上!



コメント(0)
トラックバック(0)


[ 前のページを表示 | 次の 5 件を表示 ]