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日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
イスラム国による日本人人質事件について
2015/01/22 19:24:25 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 時事ネタ

イスラム国が二人の日本人を人質に取り法外な身代金を日本に要求してきました。
この記事を書いている地点で、支払期限までおよそ21時間ほどしか残されていません。
これまでのイスラム国の残虐極まりない行いを見るにつけ、絶望的な気持ちになります。
願わくは全能なる神の御手が動き、二人の日本人が守られるように。

人質の一人である後藤健二さんについては、一昨日事件が明るみに出てからほどなく、FBなどで彼がクリスチャンジャーナリストであるという情報が拡散されました。
また、私の知人の知人であるということ、非常に尊敬できる人物であることなどが伝わってきました。
とりあえず私にできることとして、教会の信徒に一斉メールを送り祈りの要請をいたしました。
次の日の祈り会では、「クリスチャントゥデイ」の後藤さんについての記事をプリントアウトして出席者に手渡し、皆で祈りの手を合わせました。
また、私の友人が緊急にChange.orgを通して作成した署名要請に応じて署名を行い、FBやメールで私の友人たちに拡散をしました。

小禄バプテスト教会では、常日頃から中東の不安定な政治情勢を覚えて、シリア、イラク、イラン、イスラエル、パレスチナなどの地域にキリストにある平和が来るようにと祈り続けてきました。
イスラム国やボコ・ハラムの残虐性がニュースで取り上げられ、多くの犠牲者や行方不明者が出てからは特にです。
ちなみに、イスラエルのためにも祈りますが、同時にパレスチナのためにも祈ります。
わけ隔てなく祈ります。
これが小禄バプテストの祈りのスタンスです。

今回の後藤さんと湯川さんについては、やはり事件の衝撃が強く、特別に祈っています。

FB上では幾人かのクリスチャンから、「後藤さんがクリスチャンだから祈る、というのはおかしいのではないか?」とか、冷めた言葉を投げかける人が見受けられます。
私たちの教会では前述のように、中東情勢について普段から祈祷課題に覚えているので、仮にそのように批判されても反論できますが、仮に普段祈っていない人が、この緊急事態に後藤さんを覚えて祈ったとしても、いいのではないかと思います。

もし、私の教会で教会に通っている人が大きな事件や事故に巻き込まれたら、すぐさま私はありとあらゆる教会関係者にその人の安全のために祈ってくれるように、要請するでしょう。
私の息子がネパールでバイクにはねられ意識不明の重体になったとき、ネパールの教会の牧師がすぐに他国のバプテスト教会のリーダーに祈りのリクエストを送り、あっという間にその祈りの輪が世界中に広がったのを目の当たりにし、そして神様がその祈りに答えてくださったのを体験し、どれほど私は感謝したことでしょうか。
これこそクリスチャンの特権です。
ただで使える特権ですから、どんどん使うべきです。

後藤さんのご家族や教会の方たちは、今この時も悲痛の中におられ、何とか救われるようにと祈っていることでしょう。
主にある兄弟が危険な状況にあるというのに、祈らずにいられるでしょうか。

主よ、御手を動かしてください。
この困難のただ中で奇跡を起こしてください。
天を押し曲げ降りてきてください。




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Jesus vs Satan!
2015/01/10 13:07:22 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 キリスト教

あちゃーっ、またこんなイラスト発見!
ネパールの某FBフレンドが張り付けていたものです。








右側の赤い悪魔をイエス様が踏みつけようとしている絵です。
(解説するまでもないと思いますが・・)

で、このおびえている悪魔君には説明が書いてあります。
簡単な英語ですが、あえて訳すと

あなたの人生における
すべての敵
すべての病
すべての痛み
すべての問題
すべての不運
すべての経済的問題
すべての悪霊!

つまり、私たちの人生のあらゆる問題はサタンの仕業・・・と言いたいのでしょうか。
我らがイエス様がそれらを蹴散らしてくれるわーっ!サタンよ覚悟しろっ!・・・みたいな。

この手のイエス様のイメージは、実は私が一番嫌いなイメージです。
なんでこんなイメージを持つのでしょう。
鬼を征伐する桃太郎、ショッカーをやっつける仮面ライダー、バルタン聖人にスペシウム光線を浴びせるウルトラマン・・・
善と悪の戦いの構図は世界のどこにでも見られるもので、とても分かりやすですね。
悪をやっつける正義の味方・・痛快です。

確かに、神の子イエス様は完全に義なるお方です。
一点の罪もシミもないお方。
そして悪霊を追い出し、病を癒し、人々を救う。
どんな悪しき者も、イエスの御名にはかなわない。
サタンの攻撃はすべてイエスの名によって退ける・・・

うーん、たしかにそう考えればこのイメージも分からないでもない。
っていうか、わかりやすいです。

でも、聖書が描いているイエス様のイメージは、少なくともこんなイエス様ではないはずです。
病を負い、傷つけられ、罪びとの友となり、罪びとを赦し、愛し、最後には十字架に掛けられたのです。
その生涯の中には確かに、悪魔の試みを受けられ、それを退ける場面や悪霊を追い出すシーンもあり、Jesus vs Satanの構図があるにはありますが、映画やテレビのスーパーヒーロー的な姿には違和感があります。

こんなイラストもあります。
Jesus vs Satanで検索すると結構出てくるので、意外と有名かも。







うーん、これもなんだかなあ・・・
確かにエペソ書6:12には、「私たちの戦いは血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」と書いています。
でも、そもそも全知全能の神と単なる堕天使サタンを同列に扱っている地点で、サタンを過大評価しすぎです。
サタンは確かに強いですよ。
私なんかよりはずうっと。
しかし、そんなことではなくて、イエス様がサタンと張り合ってるという構図が聖書的には違うと思うのですね。
光と闇、白と黒、善と悪、神と悪魔・・
こういった極端な善悪二元論というのは、もともとグノーシス主義としてキリスト教の歴史の中で退けられてきました。
異端的であり、ある意味オカルトチックです。

人間が罪を犯すその背後にサタンの巧妙な罠がある、という考えはいいとして、ありとあらゆる問題が神やサタンに起因するかのような思想は明らかに行き過ぎです。
それは罪を犯す人間の責任や、その罪のために死なれたイエス様の十字架の価値をも薄めてしまいます。
私たちは自分たちの意志で善や悪を選び取りますから、当然その責任は私たち自身にあります。

じゃあ、サタンには責任がないのか?
・・・もちろんそんなことはありません。

軽く書き始めてしまいましたが、これは大きな神学的なテーマですね。
収まりがつきそうにないので、今回はここでいったん閉じます。
また時間があれば書いてみたいと思います。



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教会の個性?
2015/01/09 14:35:34 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 教会

舌に口内炎ができ、腫れて痛いです。(涙)
昨日から塩水でうがいしてますが、治るまであと数週間はかかるのでしょうか・・・。

「教会の個性」ということで話をします。

キリスト教会は一般にはカトリックとプロテスト教会、それに正教会の3つに大別されますね。
じゃあプロテスタントはみんな一緒かといえば、これまた全然違うんです。
礼拝スタイルや聖書の読み方、解釈の仕方、教義上の強調点など。
組織上も千差万別ですね。
例えば、私が属しているバプテストと呼ばれる教派も、本当にいろいろあります。
リベラルから超保守派までよりどりみどりというか・・・。

違うということはとても良いことで、それは個性でもあります。
神様は一人一人にそれぞれの個性をくださいました。
同じように、教会にもそれぞれの個性があるのですね。
音楽の専門家が多く集まる教会であればやはり音楽に力を入れるし、米軍基地のそばにある教会は、基地問題に取り組んだりする・・・というように。

しかし、単純に「個性」というくくりで許容できない場合があることも事実です。
それは、例えばクラスには様々な個性の子がいてそれぞれの個性が尊重されるべきだけれども、クラスの和を乱したり、自己中な行動をとったり、他の子をいじめたりする場合は、もはや「個性だから」では済まされないのと一緒です。

キリスト教会の場合、教理的に明らかに逸脱している、組織的に一般常識から大きく外れている、人々を脅したり惑わしたり何かを強要するといったような体質上の問題がある場合、もはや「教会の個性」とは言い難いものを感じます。
特にまずいのは、「うちの教会こそ一番正しい!聖書的!」とか「うちの牧師は霊的にとても権威があるから、その教えに従わないと・・」のような優越思想的、あるいは極端に排他的な雰囲気を醸し出している場合。

実際にそのような教会があって、結果的にそこで深い傷を負わされてしまった人がいます。
その人が癒されるのには相当な年月がかかります。
傷を与えたのが本来愛を語り実践すべき教会であり、牧師であるわけですから。

教会は決して完全無欠な場所ではありません。
不完全であるからこそ、たくさんの教派が存在しているわけです。
そこに集まる人々はみな罪びとです。
聖人などと呼ばれる資格のある人は一人もいません。
それは牧師であっても同様です。

だからこそ何よりもまず謙遜を身につけなければなりませんね。
信徒あっての牧師であり、地域あっての教会だということ。
上に立つのでなく、下から仕えるということ。
イエスご自身、「仕えられるためではなく、仕えるために」来られたのですから。
弟子たちの汚い足を洗ってくださったイエスのように、私も徹底して仕えるものになりたいです。



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あけおめ!
2015/01/01 01:43:37 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 一般
あけましておめでとうございます!

2015年が明けました!
すごいです。
久しぶりのブログが新年明けてすぐ!
わたくしの今年の意気込みが感じられます。(笑)

実は、昨年はブログの書き込みはもとより、ウェブサイトの更新もほとんどせずにいたのですが、フェイスブックだけはちょくちょく更新していました。
それだけでも事足りるかと思っていましたが、やはりヘヴィな内容のものや、「牧師っぽい」神学的な内容をフェイスブックに載せるのもなんだかなあ、という思いもあったのです。
そんな時には、やはり教会のブログにちゃんと綴っておくべきですね。
意外とウェブサイトも見られているということもわかりました。
なので、放置しないで、ちゃんと牧師としての視点でいろいろな話題をこのブログに書いていけたらと思います。

何をいまさら・・という感じですが、よろしくお願いします。

取り急ぎ。

東風平巌

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