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日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
赦すということ
2015/09/01 01:01:01 ブログカテゴリ 那覇市 | 書庫 聖書

昨日の礼拝では、マタイによる福音書18章21節以下をテキストとして、「赦しの奥義」というタイトルでメッセージをしました。
実に難しいテーマです。
というより、私がライフワークしているテーマの一つと言ってもいいかもしれません。

そうしたら、私がよく訪ねるサイトにアップされていた記事にびっくりしました。
まさにドンピシャそのテーマであったことと、書かれていることが私がまさに語ったことと非常に似ていたからです。
リンクを張りますので、ぜひお読みになってください。

http://fuminaru.blogspot.jp/2015/08/blog-post_30.html#links

私は「赦し」ということを講壇から語るのに非常に気を遣います。
それには理由があります。

「赦し」が必要とされる状況には、赦す側と赦される側が存在します。
状況次第では、これが「被害者」と「加害者」という関係になります。
ところで、教会では時折このような言葉を聞くことがあります。
「イエス様が私たちの罪を全部赦してくださったのだから、私たちも無条件に相手を赦さなければならない。赦さないことは罪である。」
クリスチャンの間で比較的よく読まれている信仰書にもそのようなニュアンスの書き方が見受けられます。

でも、ちょっと待ってください。
それはつまり、被害者にだけ気持ちや行動の変化を要求することになりますね。
それっておかしくないですか?
まずは加害者が謝罪や償いをして、被害者に赦しを請うように持っていくのが筋じゃないでしょうか。
つまり加害者が被害者に「悔い改める」ように勧告することも、教会がなすべき働きではないかと思うのです。
実際マタイ18章を1節から丁寧に読むと、赦すことの大切さと同じくらいかそれ以上に、弱い立場の人を躓かせることへの警告や罪を犯した人への悔い改めの促しが語られています。
義なる神さまは、人を躓かせたり傷つけた加害者にこそ、態度の変化を求められるのではないでしょうか。
神さまはいつも弱い立場の人たち、声を上げられない人たち、差別されている人たちの味方ですから。

もちろん赦すことは素晴らしいことです。
自分から自主的に、自分を傷つけた人を信仰によって赦すことができれば、なんと幸いでしょうか。
イエス様は私たちを愛してくださり、罪深い私たちのために死んでくださいました。
身代わりになったのですね。
私たちが払うことのできない罪の代価を、私たちに代わって支払ってくださったのです。
神によって赦されている、ということに感謝し、私も赦そう、という気持ちで生きていくことはクリスチャンンにふさわしい生き方でありますし、エフェソ書やコロサイ書にも「互いに赦しあいなさい。」と教えられています。

でも、それができないほどボロボロになった人がいる場合、その人に対して「赦しなさい」というのは酷です。
まずは、傷ついたその人に寄り添いその深い苦しみに共感していくことこそ、神の御心でありクリスチャンとして当然のあり方であると信じます。

なぜこのようなことを書くのかというと、カルトあるいはカルト的な教会で傷つけられた人があまりにも多く、またその多くが、「赦しなさい」という呪縛によって苦悶しているのを見てきているからです。
彼らは傷ついてその教会から出た後、癒しを求めて別の「福音的な」教会に行きますが、そこの牧師から「赦しなさい」と言われてさらに傷を深めてしまうのです。
教会が傷つけてしまうことほど悲しいことはありません。
教会こそ、最後の砦であるはずなのに・・・

なので、わたしは「赦し」を語る時はいつも以上に言葉に気を付けます。

もちろん、誤解のないように再度書きますが、イエス様の赦しは完璧です。
私の罪も赦されています!
そのことは何度も何度も講壇から語ります。
福音の神髄ですから。
そこは微塵にも疑ってません。
だからイエス様に感謝しても感謝しきれず、私は牧師をさせていただいています。

以上!



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