3.11に思う
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2011年3月11日。 あの日、テレビの映像から流れてきた凄まじい惨状は、とてもこの世のものとは思えませんでした。 テレビにくぎ付けになりながら、こんなことが今日本で起きていることに全く現実感を感じませんでした。 その次の日だったでしょうか、一本の電話をもらいました。 ロサンゼルスに住む、古いアメリカ人の友人からでした。 もう十数年も音沙汰のなかった人でしたが、震災と津波の報道を見て何とかして私に連絡をしてきたかったようです。 電話口で彼は日本のために祈っていること、何か支援ができないか考えていることを伝えてくれました。 そして次のようなことを、言葉を選びながら私に言いました。 「巌、これは神さまからの日本に対するメッセージだと思う。」 私は、彼の優しさと気遣いに心から感謝しつつも、「この災害が日本に対するメッセージだと思う」と言う彼の言葉には違和感を感じました。 本心では、「この震災は、イエス様を信じようとしない日本に対する神の裁きだ」と言いたかったのでしょう。 何か悲劇的な災害が世界のどこかで起きるたびに、これは神からの警告であるとか、神の裁きである、と言う人たちがいます。 もちろん、神の究極的な意志は私たち人間にはわかり得ませんから、そのような可能性がゼロとは言えないでしょう。 しかし、苦難にあった義人ヨブであれ、ヨハネ9章に出てくる生まれつき目の不自由な人であれ、ルカ13章のピラトに処刑されたガリラヤ人であれ、シロアムの塔の下敷きになった18人の人であれ、その災いが神の裁きでないこと、つまり彼らの罪や不義が原因でなかったことは明らかです。 昨年4月25日に起きたネパール大地震の時もそうでしたが、このような災害で亡くなる人の中には、あらゆる宗教の人たちが含まれています。 もちろん多くのクリスチャンも犠牲になりました。 神の裁きであるなら、なぜ信仰を持っていた人たちが死に、そうでない多くの人たちが助かるのか説明がつきません。 災害を神の裁きと宣言する時、私たちは被災者を二重の苦しみに合わせているのだと知らなければなりません。 一つだけ言えることは、あらゆる出来事は神の御手の中にあり、神の許しの中で起きているということ、究極的にはその一つ一つに意味があるということです。 2011年の11月に私は宮城県の気仙沼に行き、そこで2か月間滞在して教会を中心に被災地支援のボランティア活動をしました。 被災の現場の凄まじさもさることながら、被災した人々が語る生々しい体験談を聞くたびに、私は心が締め付けられ、涙が流れることもしばしばでした。 「辛かったですね・・・」 本当にそのような言葉しかでませんでした。 なかなか光が見えてこない、明日どうなるかもわからない中で、彼らは呻きながらも必死になって生きていこうとしていました。 私は支援物資を届けたり、支援コンサートのコーディネートをしたり、ささやかなお手伝いをしましたが、いわゆる「伝道活動」はしませんでした。 彼らのことを忘れないこと、祈り続けること、共にいること、それが私にできることではないか、と考えたからです。 あれから5年が経ち、私は本当に彼らのことを忘れなかったでしょうか。 本当に恥ずかしいことに、この1年間被災者のことを思い、彼らのために祈ったことは数えるほどしかありませんでした。 衝撃的な被災の現場を見、被災者の話に幾度となく涙したことすらも、記憶のかなたに押し込まれつつあることにはっと気づかされます。 あの気仙沼で出会った人たちは、どうしているでしょうか。 復興支援屋台村で一生懸命町おこしをしようとしていた人々、幼稚園の園児やご家族、仮設住宅で出会った人々・・ 5年経ってもまだまだ復興は道半ばです。 福島第一原発の事故もまだまだ終息していません。 被災地に思いを馳せながら、今日は祈りを捧げる日にしたいと思います。
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