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今日はブックレビュー的内容です。 ![]() ![]() なかなかに読み応えがありました。 前半は内村の伝記のような内容で、彼がキリスト信仰に至った経緯、アメリカ留学時の様々なエピソード、どのように自身の思想神学を発展確立していったかなどを、一次資料をふんだんに引用しながら、分かりやすくまとめられています。 内村鑑三は日本のキリスト者であれば是非学ぶべき信仰者の一人ですが、意外に彼の思想信条について直接学んだことのある人は少ないのではないでしょうか。 彼の膨大な著作集を読破するのは簡単ではありませんが、この本を読めば手っ取り早くその概要を知ることができるので、入門編としてお薦めです。 しかし、今回紹介したいのはそこではありません。 内村がホーリネス運動の中心人物だった中田重治らと共に、今からちょうど100年ほど前の大正時代、精力的に展開した再臨運動があったのですが、この本の後半にはその内容がまとめられています。 キリストの再臨に対する内村らの熱い思いや、その運動が全国展開される中で多くの聴衆を集めたこと、しかし途中から自由主義神学を掲げる牧師らの反対に遭い、最終的には2年余りで衰退していった様子など、その歴史的経緯が分かります。 私が特に注目したのは、黒川氏がこの運動の背景として指摘している次の一節です。 2014年6月に始まった第一次世界大戦は予想を遥かに超えて拡大した。この犠牲者900万人以上を出した悲惨な戦争が、再臨運動の時代背景にあった。日本国内では、戦争インフレのために米価が異常に高騰し、8月3日には富山に米騒動が起きるという経済的危機状況にあった。スペイン風邪も多大な犠牲者を出した。一般的に歴史上、危機的状況に陥った時、キリスト教文化圏において、「艱難時に再臨があって千年王国が実現する」という前千年王国論が生起する傾向にある。この終末論は日本においてだけではなく、欧米においても進展した。戦争が継続する間は、確かに再臨運動は継続した。(引用終わり) 要するに、100年前に盛り上がった再臨運動の背景として、世界戦争、経済危機、疫病の拡大があったこと、そして歴史上このように再臨運動(特に千年王国前再臨説)が盛り上がるときには、一般的に似たようなことが時代背景として観察されるというのです。 これは私も全く同意します。 昨今見られる終末論の高まりの背景として、世界的なパンデミックや不安定な社会情勢が影響しているのは否定できないでしょう。 問題は、今その渦の中にいていまだかつてない強い期待感や危機感を感じ、「早く福音を伝えなければ手遅れになる」と焦りにも似た心境を持っておられる方の多くが「これほど終末を強く感じられる時代は歴史上なかったに違いない。私達は特別な時代に生きている。」と思い込んでいるように思えることです。 思い込むだけならいいのですが、これを根拠に半ば強引な伝道スタイルで未信者に信仰を押し付けようとしてはいないか、と憂慮しています。 「私たちの時代は特別」という感情は、陰謀論者が陥りやすい「私だけが真実を知っている」という一種の優越感をくすぐる感覚と非常に親和性があって、それゆえに現代の陰謀論が終末的色彩を帯びていると言えるのではないでしょうか。 上記の指摘にあるように、歴史を振り返れば「今が終末だ」と強く感じられたのはこれまでに幾度もあったのです。 そもそも2000年前の初代教会の信徒たちの方が、私達よりはるかに強い再臨信仰を持っていたのではないでしょうか。 これは今日のテーマからずれますが、聖書的に言えば、イエス様の初臨以来、ずうっと終末なのです。 ですから、状況が逼迫してるからということで追い立てられるように宣教に向かうのではなく、地にしっかり足をつけながら、落ち着いて信仰生活を歩む中で、イエス様の愛に根ざし喜びを持って宣教に励んでいくものでありたいと思います。 ところで、私自身は再臨信仰はとても大切だと思ってますし、もっとこのことについて講壇から語らなければと思っています。
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今日2回目の投稿です。
昨晩BS1で、昨年12月4日に銃弾を受けて亡くなったペシャワール会中村哲医師についての特集番組がありました。 中村さんについてはこれまで何でも特集が組まれて放送されていて、私もそのたびに観るようにしていましたが、改めて、この人の人柄と行動力に惚れ直しました。 だいぶ前に沖縄で講演会があったときにも直接講演を聞いて感動したのを思い出します。 決して弁が立つ方ではないのですが、昨日紹介されていた中村さんのいくつかの著書の中の文章には何とも言えない力強さを感じました。 彼の命日が私の誕生日であったことに、大変おこがましいのですが個人的になんとなく運命的なもの感じています。 中村さん自身はあくまで医師として、そして緑の大地プロジェクトのようなプロジェクトのコーディネーターとして働かれたという認識であったろうと思いますが、私に言わせれば、彼こそ宣教師だと思います。 現地で直接ご自身の信仰の話をされたかどうかわかりません。 彼を通してイエス様を信じるに至ったアフガンの人がいたのかどうかもわかりません。 しかし、彼の行動によって何十万人もの命が救われました。 その働きはイエス様の働きそのものだったと思います。 彼はご自身の生き様を通し、行動を通してイエス様のミッションを遂行されました。 命を危険にさらしながら愛の働きをすること以上に尊い宣教の働きがあるでしょうか。 彼を通して、分け隔てなく隣人を愛するというキリスト教のポジティブな側面が伝えられたことと思いますし、また彼に感化されてキリスト信仰に興味を持つ人が間違いなく起こされたであろうと信じます。 ペシャワール会の何千分の一の規模のエデンプロジェクトですが、中村さんの信念と行動を一つのモデルとしながら、ネパールのために私たちにできることをこれからも続けていきたいと願っています。
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久しぶりの投稿です。 いつもながら無精者ですみません・・(><) 「繁栄の福音」と言われる教えがあります。 すごく簡単に言うと、 「疑うことなく心から神を信じれば、経済的、物質的な豊かさや健康を手に入れることができる」というものです。とても分かりやすいですね。 早い話が、ご利益主義的キリスト教です。 結論を先に言うなら、小禄バプテスト教会はこの教えを支持しません。 それどころか、このような誤った世界観を排除します。 でも、もう少し説明が必要ですね。 確かに聖書には、神を信じる信仰の大切さがふんだんに書かれています。 同時に、神を呪い神に背を向ける生き方が、結果的に不幸な結末になると警告しています。 というか、私は牧師ですから、当然信徒の皆さんに信仰をしっかり持つように勧めるわけです。 そして、神は信じる者を決して見捨てたり路頭に迷わすことはなさらないということを、講壇からいつも語らせていただいています。 ですが、上に書いた繁栄の福音はそれとは別物です。 聖書は明確に、どんな信仰者であっても試練や迫害に遭うと語っています。 経済的困難や健康上の問題、人間関係のトラブルなど、現実に生きている中で当たり前に通らされるわけです。 でもイエスを主と信じる者にとって、それらの苦難はもはや意味が違ってきます。 神が私たちを愛するがゆえに、そして永遠に神と住まうという究極の目的ゆえに、私たちは苦しみをも価値あるものとすることができるのです。 私たちは苦しみや痛みが完全に去るように祈るのではなく、これらを乗り越える力が与えられるように、そしてこれらを通して神にますます近づくことができるように祈ります。 繁栄の福音のもっとも大きな問題は、経済的困窮や病気は神からではなくサタンからのものであると考えることです。 私たちを幸せにしようとされる神がそのような目に私たちを遭わせるわけがない、と言うのです。 もし私たちがそのような苦しみに遭っているとすれば、それは信仰が欠けているからだ、あるいは何か重大な罪を犯しているからだ、完全に神を信じればそんなことに遭うはずがない、として、現実の困難の中にある人たちを責めます。 これは大変不幸な過ちであり、間違った教えです。 このような教えは、問題を抱えている人たちをさらに追い込み、解放どころか束縛してしまい、自責の念で一杯にします。 私たちを救うため、自由にするため、そして平安を与えるために主イエス・キリストが来てくださり十字架にかかって下さったにもかかわらず、不安と恐れと罪悪感に満ちた信仰生活を送らなければならないとしたら、これほど皮肉なことはありません。 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)このテーマについて、数回にわたって書いてみたいと思います。 ただし、いつになるかわかりませんが・・ ![]() ![]() |
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もうすぐハロウィーンですね。 本当?? もし本当だとして、じゃあ霊的に悪影響を受けていないものを避けて、そうでないものだけを購入しようとしても、そんなこと絶対にできないことがわかります。 そう考えてみると、ハロウィーンをはじめ宗教的な背景を持つ地域のお祭りなどを意識して避けることができたとしても、そのような人たちが信じる、いわゆる「霊的な悪影響」を日常生活から完全に排除することは不可能なのです。 ![]() ![]() |
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フェイスブックがここ1、2週間騒がしいですね。 で、私の意見を述べる前に・・・ 実は私がアメリカの神学校に入学する前、3か月間語学学校に通っていたんですね。 さて、本論です。 ずばり、私は「同性愛は罪である」という意見に○でも×でもなく、△をつけたいと思います。 同性婚を否定することを、人権の無視だとか、差別だ、と考える人たちがいます。 ![]() ![]() |
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