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日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
終末と神の裁き(1)
2021/03/08 13:19:25 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
5歳の子を実の母親とその「ママ友」が餓死させるという、大変痛ましい事件がありました。
現在捜査が行われている途中で、具体的な事実関係はこれから明らかになってくると思いますが、これまでに報道されていることが事実であるならば、ママ友に対する憤りを禁じ得ません。
母親自身も親としての責任は免れませんが、信頼していたママ友にことごとく騙されていたことを知った彼女の衝撃の大きさは想像に難くありません。

これまでの報道では、彼女は罪を認めているが、ママ友は否認しているとのこと。
ますます私の中に抑えがたい怒りを感じます。(牧師という身でありますが、ここは素直に表現させてください)
恐らく多くの人たちが私と同じ気持ちだと思います。
亡くなった男の子が本当に不憫でかわいそう。
とても許し難い事件。
ママ友には厳罰が下ってほしい。

もし、ここで正当な「裁き」が行われないとしたらどうでしょうか。
これだけの非道な罪を犯した人が法によって裁かれず、当然受けるべき罰を受けなかったとしたら、誰が納得できるでしょうか。
「これではとても被害者は報われない」と感じますよね。
正しい裁きが存在するということは、正しく社会が機能するために必要不可欠な前提条件です。

私たちの教会でヨハネの黙示録を学びながら、この書が書かれた紀元1世紀末、ローマの支配下にあった教会に思いを馳せます。
ローマ皇帝やその偶像を拝むことを拒否し、イエス・キリストに対する信仰を表明しただけで投獄され、ある者は見せ物としてライオンなど猛獣の餌食にされ、ある者はたいまつ代わりに生きたまま火をつけられる阿鼻叫喚の地獄絵図。
当時のクリスチャンにとって、皇帝礼拝を拒否しイエスを証しすることはまさしく死を意味しました。
彼らを迫害する者、殉教に追いやる者を裁く仕組みなど、その国家には存在しなかったのです。

そのような時代を生き、信仰の仲間たちの無念の死を見届けたクリスチャンが、悪しき勢力に対する神の正当な裁きを求めたことを非難できる人がいるでしょうか。
「聖なるまことの主よ。いつまで裁きを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示録6:10)という殉教者の魂の叫びに私も深く共感します。

黙示録は、反キリストや偶像への礼拝を強要する力に対し、苦難を生き、子羊なるイエスに従い続ける信仰者の勝利を描いています。
神が必ず裁いてくださるという単純な約束の事実が、当時のキリスト者にとって、どれほど大きな慰めと励ましになったことでしょうか。
18章から19章にかけての大バビロンの滅び、サタンである竜、反キリストである獣に従った者たちが受ける裁きの描写はあまりにおどろおどろしく、思わず「ここまでやらなくてもいいんじゃないの?」と目をそむけたくなるほどですが、むしろ世の終わりには神の厳粛な裁きがあるという事実に心を留めるべきだと思います。

教会での黙示録の学びで、この辺りを学んだ時なんとなく重たい雰囲気がありましたが、表現のグロさだけでなく、書かれた背景を知ることで、神の約束の確かさと公平さを学ぶことができたのではないかと思います。
神がとことんまで私たちを愛してくださっているばかりか、すべての世の不条理を最終的にご自身の義で公正に裁いてくださることに、今の混とんとした時代を生きている私たちもまた希望を持つことができるのではないでしょうか。
私は終末論において過去主義的アプローチは取りませんが、特に黙示録などは、その書かれた背景を読み解くことは必要なことだと強く感じます。


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千年王国と神の国
2021/03/03 19:15:33 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
キリスト教の中心テーマとは言えないのですが、たまにその解釈をめぐって議論になるものの一つに「千年王国」があります。
千年王国について、「わたしの教会では礼拝説教で牧師がしょっちゅう語っています」とおっしゃる方は、それだけで牧師のスタンスがかなりピンポイントで予想できます(笑)
昨年4月から終末論の学びを続けている私たちの教会では、今日初めてこのテーマについて学びました。
いつものように一通り私が説明をし終えた後、皆さんの表情を見ると、一様に「こりゃあ、理解するのむずかしいわ・・」っていう顔をしていました。(予想通りです・・( ´∀` ))

千年王国とは、聖書の一番最後の書であるヨハネの黙示録の中にしかない、しかも最後から三番目の章である第20章にしか出てこない言葉です。(合計6回出てきます)。
概念としては旧約聖書のいくつかの預言書の中に見え隠れしていますが(解釈によります)、キリストご自身もパウロも、このことについては明確に語っていません。
分厚い聖書の最後から数えて数ページのところにようやく登場する内容ですから、普通の本で言えば「あとがき」の部分でちょこっと触れているだけような感じにも思えます。
終末について何度も語っているキリストご自身やパウロがほぼ沈黙していることを考えても、この解釈をめぐって正統とか異端とかを決めつけることには特に注意しなければなりません。

今日の学びでは、ざっくりと、1)千年王国はキリストの再臨の後に完成するという説(千年期前再臨説)、2)千年王国はあくまで象徴であり、現在の教会時代を指しているとする説(無千年王国説)、3)千年王国が地上で実現した後にキリストが再臨するという説(千年期後再臨説)の3つについて説明しました。
それぞれの主張にそれなりの聖書的根拠があり、その説が生まれて支持されてきた社会背景や歴史があることも併せて学びました。(私自身は1番目の「千年期前再臨説」を支持しています)

中でも、どうしても教理上押さえておきたいポイントは、いわゆる「神の国(天の国)」と千年王国とのつながりです。
イエス様は千年王国については明確に語られなかった一方で、神の国(マタイによる福音書では「天の国」という言葉が多用されているが同じ意味)については、まさに中心主題として何十回も語られました。
マタイでは「天の国は〇〇のようなものである」とイエス様が譬えで話されている個所がいくらでも散見されます。
その一つ一つを読んで分かるように、神の国は必ずしも遠い未来の話ではなく、イエス様がおられたあの2000年前の「現在」にすでにあったことがわかります。
少しくどい説明ですが、神の国とは「キリストの王的支配」という風に表現されます。
イエス・キリストが公の働きを開始したときから、小さな種が地に蒔かれ、芽を出し、根を張り、少しずつ植物が育っていくように、キリストの支配は世界に少しずつ広がり始めたのです。

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(マタイによる福音書13:31−33・新共同訳)

また、ファリサイ派の人たちがいつ神の国が来るのか、とイエスに尋ねたときの答えは特に重要です。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書7:20−21・新共同訳)

イエスが臨在されるところ、そこに神の支配があり、それこそが神の国なのだと言われたのです。
イエスの御名によって集まるところは神の国の一部ですから、教会も神の国です。(「♪ここも神の御国なれば 天地(あめつち)御歌を 歌い交わし♪」の讃美歌を思い出しますね。)

神の国についてはそれ以外にも多くの言及があります。(「神の国と神の義をまず第一に〜」など)
それらは神の国の「現在性」を特に強調しているように思えます。

一方で神の国には「終末性」の側面があります。

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイによる福音書13:24−30・新共同訳)

この麦と毒麦のたとえ話では、天の国(神の国)には良い人だけではなく、悪い人もいることがわかります。
そして刈り入れの時(終末)には、良い人と悪い人が峻別され、それぞれの運命が異なることを教えています。
まとめると、神の国は現在世界の中で拡大されつつありますが、ちょうど麦(御国の子ら)と毒麦(悪い者の子ら)が混在している状態であって、最終的な裁きの時には、悪い人たちは永遠の滅びへ、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く(マタイ13:43)」というのです。
何をもって悪いとか正しいとか判断されるのかと言えば、もちろん聖書全体を貫くテーマである「信仰」との関りで理解されますが、それについてはここでは触れません。

神の国は、上のたとえ話が示すように、現在の玉石混合状態から、今後終末に向かうにつれて、いよいよ悪が増大し混とんとした状態に向かうでしょう。
しかし最終的には、誰も言い訳ができない厳粛な裁きの時を迎え、その時キリストに迎え入れられた人は、キリストと共にある至福の時を過ごすのです。
これこそが「千年王国」であると私は理解します。
つまり、神の国は終末の千年王国によってついに完成を見るのです。
ここで千年王国が文字通り千年間(Millenniam)続くかどうかは、私はあまり大切ではないと思います。

いつになく長文になりましたが、今回これをブログに書いた理由は、ある著名な牧師のサイトに「神の国=千年王国」であるかのような記述があってとても違和感を覚えたからです。
冒頭に書きましたように、千年王国の理解の違いについて、自説が絶対に正しい、他説は間違いだ、と決めつけることに十分注意しなければなりませんが、私自身が取っているスタンスについては、公開をさせていただこうと思いました。

ご感想、ご意見、ご批判などお寄せくださると嬉しいです。


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気候変動、寒波、世の終わり(2)
2021/02/27 19:08:05 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
*追記しました(2/28)

私たちの教会では、昨年の4月から水曜日の聖書の学びと祈り会で終末論について学びを続けていますが、終末についての聖書の記述で際立つのは、天変地異についての非常に多くの聖句です。

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 」(ルカによる福音書21章25-26節)

「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(ペテロの第二の手紙3章10節)

「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。」(ヨハネの黙示録6章12-14節)

さらに自然界の異変(「神の怒り」の一部と解される)により、人間を含め生物の多くの命が失われることも預言されています。

「第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された。」(ヨハネの黙示録8章7-9節)

「第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。・・第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。」(同16章3, 8節)

かつては、将来「世の終わり」をもたらす主要因になるのは、核戦争や第三次世界大戦のような直接的殺戮行為であろうと言われていましたが、私は上記のような記述から、気候変動がもたらす影響の方がむしろ強いのではと推測しています。
もしそうであるなら、一部の愚かな人たちの行為に責任があるのではなく、人類全体、特に先進国にいてその原因を生み出す側にいる私たち一人一人の責任だと思うのです。
神を恐れない愚かな人間の利己主義によってこの問題は今後ますます加速し、気づいたときには手遅れの状態になっているのではと、かなり悲観的に考えたりします。
「地球温暖化など存在しない」と強弁し、取るべき対策を取らず、最も被害を受けやすい途上国の人々を食い物にしている先進国の政治家や利権にまみれた実業家たちはもちろんですが、それらの人たちの下で甘い汁を吸っている私たち一人一人もある意味同罪です。

お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。(エゼキエル書34章17-19節)

「自分たちは神を信じているから艱難を免れることができる」「裏で操っている闇の勢力の嘘に騙されてはいけない」として、あたかも責任は別のところにあり、自分たちは選ばれた民であるから大丈夫だとあぐらをかいているキリスト者はどうでしょうか。
裁きの時にそのような浅はかな言動について申し開きをしなければならないでしょう。

もちろん、聖書は世の終わりの出来事として政治的・宗教的なこと、反キリストの登場など、いろいろな要素があることを伝えているわけですが、ちょうどノアの洪水やバビロン捕囚がそうであったように、人間の罪深さ、自己中心性が極まった結果、もたらされるのだろうと思います。

神が造られた美しい環境を正しく管理することを人は命じられたのに(創世記2章15節)、明らかにその命令に逆らうことをし続け、今や私たちはその「当然の報い」を受けつつあるように感じます。
私たちの豊かで便利なライフスタイルが、自らの首を絞めることになるばかりか、貧しい途上国に対して気候変動という大きなしわ寄せをもたらしている事実を認識する必要はないでしょうか。
そして神を恐れ、神の前にへりくだると同時に、たとえ小さなことでも私たちが自分たちの生活の中でできることは何か考えていくべきだと思います。


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気候変動、寒波、世の終わり(1)
2021/02/27 19:07:20 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
私は本職である牧師とは別に、環境関係のNGOに携わっていますので、環境問題のトピックにはとても関心を持っています。
特に気候変動に関するニュースはできるだけ目を通すようにしています。

ところで、昨年末から今年にかけての冬は多くの日本人にとってとても寒いと感じられたのではないでしょうか。
日本だけではありません。
アメリカのテキサス州では零下18度という異常寒波が襲い、停電と断水によって数十名の死者が出るほど被害が拡大しました。
テキサス州に住む私の友人が、室内の天上から垂れ下がったつららの写真をフェイスブックに投稿して、私もここまで酷いのかと驚きました。

このような厳しい寒波を実際に体感すると、多くの人たちが「地球温暖化は嘘なんじゃないか」と懐疑的になるのはとても理解できます。
なんとなく言葉のニュアンスから「地球温暖化=一年を通じて(夏も冬も)平均気温が高くなる」と考えてしまうからです。

ある人が、「最近『地球温暖化』ではなく『気候変動』という言葉が多く使われるようになったのは、実際には寒冷化が起こるなどして温暖化の嘘が隠せなくなり、ごまかすためだ」と言って、地球温暖化はでっちあげであると主張していました。
また、2019年にやはりアメリカ中西部が大寒波に襲われたときには、地球温暖化に懐疑的な当時のトランプ大統領が「地球温暖化はどうなっているんだ。戻って来てくれ。お前が必要なんだ。」という嘲笑的なツイートをしています。

実際、地球温暖化は嘘なんでしょうか。
あるいは、本当は大した問題ではなく、(利権の絡んだ)一部の人たちが大げさにわめいているだけなのでしょうか。

このこと関して、私たちはただ漫然と「地球温暖化は地球の気温が全体的に上昇する現象である」と考えるのではなく、そもそも地球温暖化、あるいは気候変動とは何かを、科学的に理解する必要があります。

2012年の日経新聞の記事「地球温暖化のせいで寒冷化」の中に、地球温暖化がこのように定義されています。

地球温暖化とは「地球全体の平均気温が均等に数度上がる」ことではなく、「平均気温の上昇で従来の気候システムが変化し、予期せぬ異常気象が増える可能性が大きくなる」現象だ。

この定義によれば、地球温暖化とは、単純な平均気温の上昇ではなく、平均気温の上昇が引き起こす様々な異常気象の増加(つまり気候変動)ということになります。
なので、地球温暖化(Global Warming)=気候変動(Climate Change)と定義してもいいし、「地球温暖化は原因で、気候変動はその結果だ」と言っても差し支えないと思います。
決して、「地球温暖化と言うと嘘がばれるから、気候変動という言葉を使おう」と言い直しているわけではありません。

また、この記事の中で解説されているように、多くの国で局地的にみられる冬の寒波も、実は地球温暖化が原因であり、気候変動の一部であると見なす学者は多いのです。(*気候のメカニズムは非常に複雑で原因は必ずしも一つではありません。詳しくは記事をご参照のこと)
良い譬えかどうかわかりませんが、長距離を走るランナーは、夏に走る場合は体がほてって体温が上昇しますが、寒い冬に走ると、逆に肌から熱が奪われて体温が下がり低体温症になる場合があります。
走れば常に体温が上昇するわけではないのです。

ネパールにいた時、このような話を聞きました。
気候変動について調査しているグループが、ヒマラヤ山脈のふもと3000メートルを超える高地に住んでいる少数民族から聞き取ったところによると、多くの高齢者が山に起こっている異変を感じ取り不安を覚えているとのこと。
小さい頃に比べて明らかに氷河が後退し、雪の降り方や湖の氷の張り方のパターンが変わってきているということ。
注目すべきポイントは、彼らは教育の立ち遅れた村に住んでいて、地球温暖化という言葉も現象も全く教わったことのない人たちです。
「ヒマラヤで急増する氷河湖、悪夢をもたらす」などのレポートにもあるように、ヒマラヤ山脈は温暖化の影響を最も大きく受けている地域の一つです。
そこに住んでいる人たちは、たとえそのことについて教わっていなくてもその脅威をリアルに感じているのです。
以前のブログにも書いたように、地球温暖化、気候変動は科学的にほぼ疑う余地のない事実として、人類全体の脅威となっているのです。(続く)


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惑わされない
2021/02/15 17:33:00 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
終末論を学ぶにあたって、もっとも注意すべきことは何でしょうか。 
私は、「惑わされないこと」だと思っています。

前回のブログで少し触れましたが、イエス様が、エルサレムの神殿を前に、いずれこの壮麗な建物が崩壊するという予告を弟子たちにされたとき、弟子たちは驚いてイエスさまに尋ねました。(そこから始まるイエス様が語られた一連のメッセージを、語られた場所を取って「オリーブ山の説教」と呼びます。) 

「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしはどんなものですか。」(マタイ24:3)
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づく時のしるしは、どのようなものですか。(マルコ13:4)
「先生、それではいつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こる時のしるしは、どのようなものですか。」(ルカ21:7)

共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書にこの会話が記されていますが、質問のニュアンスが微妙に違います。
複雑な議論は避けますが、マタイとマルコは特に神殿の崩壊は世の終わりを予兆するものと理解していたことがわかります。
いずれにしろ、弟子たちの関心事は、「いつ神殿が壊れるのか」「いつ主が来られるのか」「いつ世の終わりが来るのか」など、未来に起きる出来事が「いつ」なのかということと、それらが起きる時に「どんなしるし」があるのかの二つに集中していたことがわかります。

これはとても興味深いです。
なぜなら、弟子たちが尋ねたこの「いつか?」と「どんなしるしか?」への関心は、まさに現代の「終末論ファン」が知りたいと思っていることそのものです。
「1999年7月、世界が滅びる」という予言で一時世間を騒がせたノストラダムスの大予言がもっとも有名ですが、「2012年12月に人類滅亡」という迷信を拡散させハリウッド映画の題材にもなったマヤ予言など、21世紀に入っても続々新説が登場しています。

キリスト教界も無縁ではありません。(異端の話ではなく、正統とされる教派・教団の中での話です。)
私のよく知っている牧師が、大胆にも2010年9月9日に携挙(信者が空中に引き上げられる)が起きると予言をしたことがありました。
私はすぐさま個人的にもブログ上でも反論をしました。(実際携挙は起きませんでした)
その後も、似たようなお騒がせ都市伝説が、近いところ遠いところで聞かれました。
宣教師としてネパールに派遣されていた時も、某キリスト教グループが「〇月〇日に主が再臨される!」と書かれた巨大看板を町中に掲げていて、それに不安に感じているクリスチャンが多かったので、そのことを説教で取り上げて、「それはデマですよ」と語ったこともありました。
当然のごとく、それらの予言はすべて外れました。
今後も何らかの日にちを特定する予言まがいの言説は、100%外れると断言します。

私が注目したいのは、弟子たちの質問に対するイエス様の答えは何だったかということです。
イエス様は開口一番言われました。
「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタイ24:4)
人の心を見透かしたような答えです。
「いつなのか?」という弟子たちが最も聞きたかった質問に答える前に、真っ先に「惑わされるな」という注意喚起をなさったのです。
その直後に書かれているように、これはイエスの名を語るものが大勢現れることへの注意喚起だったわけですが、終末に関する驚くほど多種多様な論や説についても、「惑わされるな」とイエス様が私たちに語られているのではないでしょうか。

結局、先にさんざん書いた米大統領選がらみの陰謀論と同様、ファクトチェックが大切です。
前のブログで地震に関することを書きましたが、こういったものは根気強く調べたら事実関係の確認は誰でもできます。
有名牧師が言っていることだから、と安易に飛び込まず、センセーショナルな解釈であればあるほど一歩引いて冷静に考える必要があります。

「でも、イエス様は一方で『目を覚ましなさい』とも言われましたよね?」
「終末が近いという意識を持つことは宣教にプラスになるのでは?」
そのような反論があるかもしれません。
これはとても大切なポイントですね。
そのうちこのテーマも取り上げてみます。


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