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また身近な方から「目を覚まして!」「真実を知って!」的な激烈メッセージが、ある方を通して転送されてきました。
直接受け取ったその方は悲しみと怒りに打ちひしがれています。 うーん、なんと言うべきか・・ どんな言葉でこの思いを表現したらいいのか分かりませんが、今はただただこの状況に「残念」と言うほかありません。 どうやら、今回の大統領選挙に端を発して家庭内が分裂したとか、仲の良い友達と険悪なムードになった、とかいうのが至る所で起きている様子。 アメリカの社会が分断されていることはニュースになっていますが、日本の一般家庭にも亀裂が入るとは、これ如何に?! 一体だれの責任なのでしょうか。 いや、責任を追及しても解決にはなりません。 それより、どうしたらこの状況が少しでも改善されるのか、考えて行かなければなりません。 私は今後はばからず「陰謀論」と言い切りましょう。 私の念頭にある陰謀論とは、アメリカ大統領選挙の実施過程やその結果において、バイデン候補の側に不正があったとする一連の疑惑を「真実だ」と断定するあらゆる論です。 「不正はあったかもしれない」「俺は不正があったと思うよ」なら全然許容範囲です。 教会で私が語るメッセージに対して、信徒が「私は先生とは違う意見なんですけど」と言われることに、私は何の抵抗もありません。(実は今朝の学び会でもありました) でも、「絶対に不正はあった!」「トランプの票が盗まれた!」「票が違法に操作された!」と断定調で言うとそれは「陰謀論」です。(久しぶりにフォント変えました) 陰謀論信奉者の特徴は、やたら高いテンションと、この事実をシェアしなければという一種の使命感です。 一般常識的には受け入れられない荒唐無稽な説を信じていることもあります。 普通に考えれば「それおかしくない?」と疑問に思うところさえ、疑問に思わなくなります。 そして、自分が信じていることが絶対に正しい、私は大変な秘密を知ってしまった、といういわば「選民思想」のような特権意識を抱きます。 自説以外のすべては間違っていると決めつけ、そのような意見を冷静に聞く耳を持ちません。 私は、自分に転送されてきた冒頭のメッセージの送り主が、私と対等な立場で議論したいと申し出たなら、いつでもその用意があります。 いえ、そうしたいと思います。 説得できるかどうかはあまり自信はありませんが。 その方が頼っている情報源の過ちを少しでも指摘し、ほんのわずかでも陰謀論に対し疑問に思う機会を与えたいと思います。 もちろん、その方はその方で、私の考えは間違っていると指摘してくるでしょう。 それに対して、私はファクトチェックされた膨大な資料を元に一つ一つ過ちをつぶしていくだけです。 結果どうなるか分かりません。 恐らく議論は平行線だと思います。 しかし、成果はあると思います。 私が根拠もなく自説を述べているのではなく、数多くの資料を元に語っていることを知ってもらえるということ。 私や私にメッセージを転送した人には、今後陰謀論に関しては何を言っても無駄だと諦めてくれること。 この二つが達成できれば、議論する意味はあるかなと思います。 もちろん、願わくは事実(私はそう信じているわけですが)に目が開かれてほしいと思います。 クリスチャンであるその方は、「とにかく祈ってみて」「神様に聞いてみて」と言います。 私は私でアメリカの混乱が一日も早く収まるように、分断がなくなるように祈っています。 しかし、その方の要求は「トランプのために祈って」です。 おかしくないですか? パンとご飯のどっちがおいしいかを議論しているときに、ご飯だけを突きつけて「ご飯が絶対美味しいからこれだけを食べて」「パンはまずいから食べないで」と理不尽な要求をしているみたいです。 どちらがおいしいかは、両方食べてみなきゃわからないでしょ、って話。 もはやそのような常識すらも通じなくなっている状況は、本当に悲しい限りです。 陰謀論=カルトというと言い過ぎかもしれませんが、カルト性を帯びていることは確かでしょう。 今後、大統領選関連に限らず、このような陰謀論がますますネットを通して拡散され、多くの惑わしが起こることが予想されます。 いよいよ、終末を感じさせる今日この頃です。 私たちが真実をしっかりと理解し、ふさわしく行動できますように。 ![]() ![]() |
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ここ数日、アメリカの政治がらみにいろんな動きがあってブログアップがついていけません・・(涙)
一つ一つ取り上げていると身が持たないです。 と言いつつ、できる範囲で書いていきます。 今日は一般的な話を書きます。 そもそも論ですが、私のような他愛のない一牧師が、なぜ米大統領戦の顛末などしつこく書いているのかと、たまたまこのブログに目が留まった方は不思議に思われるかもしれません。 牧師なんだから、牧師らしく聖書のこと、キリスト教のこと、イエス様のことをわかりやすく伝えることに徹したらいいのではないかと・・。 ごもっともです。 そして、私も早くこの状況が落ち着けばぜひそうさせていただきたいと思います。 しかし、今は訳あってこのカテゴリの内容のものを書き続けています。 元々関心があったということも理由の一つですが、書かざるを得ないというか、書きたてられている、と言うべきか・・ 実は、私の身近な人の中に、どっぷりとこのいわゆる「陰謀論」にはまってしまった人がいるからです。 その人は文字通り血相を変えて、ディープステートや中国共産党の闇を訴えています。 そしてトランプさんがいかに素晴らしく、バイデンさんがいかに恐ろしいかを語ります。 その必死な様子を見るにつけ、もはや単なる思想や政治観の違いでは済まされない異常さを感じます。 もっと細かく書きたいところですが、ここまでにしておきます。 誰に誘われたでもなく、インターネットを利用するうちに自ら簡単にこのような言説にはまってしまうところに、ネット文化の恐ろしさを感じます。 テレビや新聞は完全なメディアではありません。 視聴者を喜ばせるためであったり視聴率を稼ぐために、事実でないことを言ってしまったり誇張して伝えてしまうことはあるでしょう。 自社のポリシーや哲学に基づいて偏向報道に走ってしまうこともあるでしょう。 しかし、陰謀論支持者は、これらのメディアには多少の誇張や偏向が見受けられる、とは言いません。 「嘘ばっかり」「全部嘘」というような極めて極端な論調で既存メディアを攻撃します。 そして一部の「自称専門家」や「自称ジャーナリスト」や「自称評論家」が個人的に発信しているYouTubeなどの媒体こそが真実を語っていると言います。 私は断言しますが、テレビの報道番組に呼ばれてコメントしたり解説をする人たちのほとんどは、こういった自称〇〇の人たちより、その道について何倍も知見があり信頼できます。 なぜなら、たとえば海外の政治問題についてであれば、何年も前からこういったことを現地で詳しく取材していたり、直接間接に情報源に接することができたり、当事者やその周辺の人たちと接触できたりするからです。(もちろん、全員がそうではありません。) そして、番組ではいろいろな意見を持つ複数の人たちで議論するので、あまり話が偏ることはありません。 もしおかしな言論をする人がいればすぐに干されて、次からは呼ばれないでしょう。 うっかり事実と違うことを言ったことが判明したら、後日謝罪させられることがよくあります。 一方、YouTuberはどうでしょうか。 確かに、本や論文を出しているような専門家が、バランスを取りながら信頼できる発信をしているのも見かけますが、はっきり言って玉石混合です。 個人的な感覚としては「石」の方が圧倒的に多いと言えます。 大手メディアとの決定的な違いは、個人で発信するので、チェック機能が働きにくいということです。 なので、視聴者を増やすためなら手段を選ばないような明らかに確信犯的なYouTuberもいます。 発信する情報は、様々な資料にまんべんなく当たって組み立てるのではなく、自分が発信したい情報だけをネット上で見つけ、それがどんなに根拠が薄くても、自分の意見に合うように解釈し直してストーリーを作り上げます。 写真や動画を用いる際にも、都合の良い部分だけを切り取ることを躊躇しません。 センセーショナルな内容であればあるほど、視聴者は夢中になってフォローします。 「閲覧注意!」「重大発表!」「ついに暴かれた!」「すぐに消されるので、早く見てください」など、サムネイルに刺激的な言葉を並べることで、閲覧者の心を掌握します。 一度信じさせることに成功するとあとは簡単です。 とりこになった人は手っ取り早く、そのYouTuberから「本物の」情報を得られるので、もはや他のメディアには見向きもしなくなるのです。 これはカルトそのものです。 カルトでは、教祖が語っていること、その教義以外の情報から信者を遮断することで、彼らを心理的に束縛し、「この世」が知らない秘密の真理を教えることで、恐怖を植えつつ心の奥底の優越感をくすぐるのです。 残念ながら一部のキリスト教会においても、自分の教会(団体)以外は真実を語っていないからそこには行ってはいけない、牧師が勧める本以外は読むな、などと言って信者を束縛するカルト化教会があります。 「ネット系カルト」の場合は、発信者がそれを強要するのではなく、視聴者が自らそのような環境を作ってはまってしまうところに、実際のカルト団体とは違う解決の難しさがあります。 以前にも書きましたが、私たちに求められているのはメディアリテラシーを身に着けることです。 ネットでなにやら怪しい言説に触れたら、「必ず」その言説の裏どりをすべきです。 特にある動画を見て「自分だけが真実を知ってしまった」感を持ったら注意です。 疑い深く、注意深く、ネット情報に接してください。 次のブログでは、数多く視聴されているある動画を実際に検証してみたいと思います(ドキドキ)。 先日Yahoo!Newsにジャーナリストの江川紹子さんの論説があったので、ぜひご一読ください。
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2011年3月11日。 あの日、テレビの映像から流れてきた凄まじい惨状は、とてもこの世のものとは思えませんでした。 テレビにくぎ付けになりながら、こんなことが今日本で起きていることに全く現実感を感じませんでした。 その次の日だったでしょうか、一本の電話をもらいました。 ロサンゼルスに住む、古いアメリカ人の友人からでした。 もう十数年も音沙汰のなかった人でしたが、震災と津波の報道を見て何とかして私に連絡をしてきたかったようです。 電話口で彼は日本のために祈っていること、何か支援ができないか考えていることを伝えてくれました。 そして次のようなことを、言葉を選びながら私に言いました。 「巌、これは神さまからの日本に対するメッセージだと思う。」 私は、彼の優しさと気遣いに心から感謝しつつも、「この災害が日本に対するメッセージだと思う」と言う彼の言葉には違和感を感じました。 本心では、「この震災は、イエス様を信じようとしない日本に対する神の裁きだ」と言いたかったのでしょう。 何か悲劇的な災害が世界のどこかで起きるたびに、これは神からの警告であるとか、神の裁きである、と言う人たちがいます。 もちろん、神の究極的な意志は私たち人間にはわかり得ませんから、そのような可能性がゼロとは言えないでしょう。 しかし、苦難にあった義人ヨブであれ、ヨハネ9章に出てくる生まれつき目の不自由な人であれ、ルカ13章のピラトに処刑されたガリラヤ人であれ、シロアムの塔の下敷きになった18人の人であれ、その災いが神の裁きでないこと、つまり彼らの罪や不義が原因でなかったことは明らかです。 昨年4月25日に起きたネパール大地震の時もそうでしたが、このような災害で亡くなる人の中には、あらゆる宗教の人たちが含まれています。 もちろん多くのクリスチャンも犠牲になりました。 神の裁きであるなら、なぜ信仰を持っていた人たちが死に、そうでない多くの人たちが助かるのか説明がつきません。 災害を神の裁きと宣言する時、私たちは被災者を二重の苦しみに合わせているのだと知らなければなりません。 一つだけ言えることは、あらゆる出来事は神の御手の中にあり、神の許しの中で起きているということ、究極的にはその一つ一つに意味があるということです。 2011年の11月に私は宮城県の気仙沼に行き、そこで2か月間滞在して教会を中心に被災地支援のボランティア活動をしました。 被災の現場の凄まじさもさることながら、被災した人々が語る生々しい体験談を聞くたびに、私は心が締め付けられ、涙が流れることもしばしばでした。 「辛かったですね・・・」 本当にそのような言葉しかでませんでした。 なかなか光が見えてこない、明日どうなるかもわからない中で、彼らは呻きながらも必死になって生きていこうとしていました。 私は支援物資を届けたり、支援コンサートのコーディネートをしたり、ささやかなお手伝いをしましたが、いわゆる「伝道活動」はしませんでした。 彼らのことを忘れないこと、祈り続けること、共にいること、それが私にできることではないか、と考えたからです。 あれから5年が経ち、私は本当に彼らのことを忘れなかったでしょうか。 本当に恥ずかしいことに、この1年間被災者のことを思い、彼らのために祈ったことは数えるほどしかありませんでした。 衝撃的な被災の現場を見、被災者の話に幾度となく涙したことすらも、記憶のかなたに押し込まれつつあることにはっと気づかされます。 あの気仙沼で出会った人たちは、どうしているでしょうか。 復興支援屋台村で一生懸命町おこしをしようとしていた人々、幼稚園の園児やご家族、仮設住宅で出会った人々・・ 5年経ってもまだまだ復興は道半ばです。 福島第一原発の事故もまだまだ終息していません。 被災地に思いを馳せながら、今日は祈りを捧げる日にしたいと思います。
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イスラム国が二人の日本人を人質に取り法外な身代金を日本に要求してきました。 ![]() ![]() |