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What is 権威?
2016/01/30 18:57:41 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
明日の礼拝では、ルカによる福音書4章31節以下から、「イエス様の権威」について語る予定です。

教会で「権威」という言葉が使われるとき、その権威がどこに付随しているのか注意深く見てみる必要があります。
「神の権威」だとか「イエスの御名の権威」という用い方は聖書的に問題ありませんが、「牧師の権威」とか「霊的権威」いう使い方が頻繁になされると、その教会では「権威」が乱用されている可能性があります。

私は牧師ですが、牧師という役職そのものに何かの権威があると思ったことはありません。
確かに教会という組織の中では代表役員であり、「先生」などと呼ばれ、毎週講壇から説教をします。
困った人たちや傷ついている人たちのカウンセリングをしたり、問題解決や癒しのために祈ることもします。
でも、あくまで私は一クリスチャンであり信徒です。
牧師という肩書を除けば、他の信徒たちと何ら変わることはありません。
罪人であり、弱さを持ち、悩み、傷つきます。
多くの人に祈って支えていただかなければ、到底私など牧師を続けていくこともできない欠点だらけのものです。

ところが、時として「牧師は神によって油注がれた霊的な権威であるから、牧師には絶対的に従わなければならない。」と豪語する牧師がいると聞きます。

「ひや〜っ!!」ってなもんです。
私のようにあまりにも普通のおっさん的な牧師にはまず言えない言葉です。
私の霊的レベルが低すぎて言えない、というのもありますが(笑)、これが聖書的であるとは到底思えないので言えない、というのもあります。

上記のような言葉を用いる牧師がよく根拠として取り上げる御言葉は、ローマ13:1−2です。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

そして、このことをよく理解するために、イスラエルの初代の王様サウルと2代目のダビデの関係が譬えとして語られます。
サウルは神によって選ばれ油注がれましたが、重大な罪を犯したために干されます。
その後ダビデという若者を神さまは選ばれ、王として建てられますが、その過程でダビデはサウル王に命を狙われるのです。
しかし、サウル王が油注がれた人物であることを知っているダビデは、たびたび彼をやっつけるチャンスを得ますが、神を恐れて決して手を下さず、彼に背かないのです。

このサウル王と現代の牧師を重ねるとどうなるでしょうか。
つまり、サウルのような悪い王であっても、ダビデは最後まで従順に従ったのであるから、教会においては、たとえ牧師が間違ったことをしたとしても、牧師は神に選ばれた霊的権威であり油注がれた者であるから、信徒は従わなければならない、と結論付けるのです。

いやはや、恐るべき論理の飛躍です。

まず、ローマ書の言葉ですが、「上に立つ権威」は直接にはローマ帝国のことを指していますね。
もちろんそこから派生して様々な権威を想定することができますが、絶対に教会の牧師ではありません。
そもそも牧師は別に信徒の上に立っているわけではありません。
牧師が霊的に他の信徒より上であることを示す御言葉はありません。
サウル王を牧師になぞらえることなど、さらにもってのほかです。
なんでイスラエルの王と教会の牧師を横に並べるのでしょうか?
歴史も意味合いも役目も背景も何もかも違いすぎます。
このような御言葉を引き合いに出して、「控えろー、皆の者!!この紋所が目に入らぬか〜っ!!」みたいに、牧師がありもしない権威を教会で振りかざすことは、絶対にあってはいけません。
そのような間違った権威のもとで服従を強いられ、大きな傷を負ってしまった人たちがたくさんいて、本当に残念に思います。

牧師は神に仕え、教会に仕え、信徒たちに仕える僕にすぎません。
イエスご自身が「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのである。」と言われたことをいつも思い出し、謙遜に主のご用にあたっていきたいものです。
私たちの権威は、イエス様の権威、しかも王でありながら僕として来られた方の権威があれば十分なのです。




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