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テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(5)
2021/07/17 17:33:52 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
「御怒り」についてのシリーズ3回目、これが最後です。

一般的に、艱難前携挙説支持者は「御怒り」については艱難時代であるとする一方で、一般的に艱難とされているものは艱難時代における艱難ではないと言う解釈をしています。
つまり、艱難には2種類あって、どの世代も共通して経験する様々な困難(例えば病気、貧困、苦痛、災害、迫害など)と、この世の終わりに訪れる地球規模の破滅的艱難があり、本物のクリスチャン(教会)は前者は経験するが、後者は経験しないと結論付けているのです。

どんなクリスチャンでも艱難を経験するということはその通りで、証明するまでもないことです。
むしろ、クリスチャンだからこそ遭遇する艱難がなんと多いことでしょうか。
考えてみれば、イエス様自身が恐ろしい艱難を体験し、弟子たちもその信仰ゆえに同じような艱難や迫害を体験しました。
クリスチャン生活は平安や保護や健康や繁栄どころか、その真逆である場合も実に多いのです。
聖書にはクリスチャンが必ず艱難に直面するということが繰り返し語られていて、下記の聖句はその一部です。(*新改訳2017では「苦難」という言葉が多く用いられています。)

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。(ローマ5:3−4)

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。(同8:18)

あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。(第一テサロニケ3:4)

このような聖句を並べると、クリスチャンになるって相当な覚悟が必要だとさえ思いますね。

さて、ここからが問題ですが、前携挙説者はなぜ、これらの日常的な艱難を世の終わりの艱難時代と区別し、後者の方は私たちは経験しない(つまり、その前に携挙される)と主張しているのでしょうか。
その理由をざっくり言えば、日常的な苦難はサタンからのものである一方、艱難時代は神からのものと考えているからです。
つまり、神はご自身に従う者を自ら主体的に艱難に遭わせるようなことはなさらないという考えから、艱難時代が神の御怒りの時であるならば、その大患難は悪しき者たちだけにもたらされるはずで、教会はその前に地上から取り上げられていなければならない、という法則を導いているように見受けられます。

しかし、この二元論的考え方自体が、あまりに物事を単純化し過ぎているのではないでしょうか。
果たして聖書はそれほど明確にサタンから来る苦難と神から来る苦難とを区別しているでしょうか。
ここでは詳しく議論しませんが、例えば、重い障害をもって生まれた人たちが経験する苦しみはサタンからのものか、あるいは神からのものか、などと単純に言えるわけがありません。

世の終わりの艱難時代は、確かに歴史上誰も経験したことのない壊滅的艱難であり、もし今の時代にそれがやって来るなら、できるなら避けて通りたいと思うのはやまやまです。
しかし、聖書は決して艱難時代を他の一般的な艱難と明確に区別しておらず、イエス様のオリーブ山の説教や黙示録に書かれている世の終わりの大患難を、教会は通過しないと断言できるいかなる聖句も見出せないのです。
「御怒り=艱難時代」と仕立て上げることで、自分たちだけはこの苦しみに遭わずに済むと考えているなら、これまでに流されてきた数えきれないほどの殉教者の血や、今なおアフリカやアジアで信仰ゆえに迫害を受け続けているサバイバーたちの目から見て、あまりに「お花畑」過ぎなのではないかと言うと言い過ぎでしょうか。

艱難前携挙説に立つカルバリーチャペルの故チャック・スミス氏が「艱難と教会」というテーマで語っている説教の中で、次のような趣旨のことを述べています。
「神が正しい人を悪人と一緒に裁いたことは歴史上未だかつてない。例えば、アブラハムがソドムとゴモラのために神に執り成しをしたのは、神は正しい人を悪しき人と一緒に裁かないという、神の公正なご性質を前提にしている。そして実際ロトがその町を出るまで、神は裁きを下されなかった。この神のご性質は今も変わらない。ゆえに、艱難時代に神が御怒りを正しい人の上に下すことは絶対にない。」

この解釈の途中までは完全に同意します。
神様は正しい人と悪しき人を同じように裁くことをなさいません。
それは今も変わりません。
しかし、最後の文章の結論部分は論理の飛躍と言わざるを得ません。
前回申し上げたように、「艱難時代=御怒り」ではないし、ましてや「艱難時代=裁き」でもないからです。

義人に対する裁きと悪人に対する裁きは違います。
だからこそ、艱難に直面しているクリスチャンたちはその約束の上に立って忍耐を持ち続け、たとえ死ぬようなことになっても信仰を捨てずに、神の裁きに身を委ねることができたのです。
その原則は艱難時代でも同じであると考えるのが自然です。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。(第二テサロニケ1:6−7)

神様はすべての人に艱難が降り注ぐことを許されます。
今後この世の中はますます混とんとしていき、自然破壊はさらに加速化し、災害は増え、人々の愛は冷え、教会に対する迫害は世界的に拡大し、キリストに従い続けるのが今よりはるかに困難な時代がやって来ることが予想されます。
しかし、どんなにその艱難が想像を絶するようなものであっても、それは一時的であって、永遠の滅びに比べると言うに及びません。
私たちは神の御怒りから救われ、永遠の住まいを得ていますから、艱難時代を恐れることはないのです。


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