2007/04/30 01:31:55 |
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今日は、私の従妹(いとこ)の結婚式でした。 お祝い続きの我が一族です。。。 私の従兄弟の中で、一番年下の従妹の結婚式ということで、披露宴最後の新婦の両親へのスピーチの際は、年が離れているせいか...叔父叔母の気持ちと重なってしまい、思わず..ホロリときました。 お幸せにね。。
さて...今日は、『昭和の日』 昨年まで、『みどりの日』として親しまれてきた、昭和の時代の天皇誕生日でしたが、2005年の第162回国会にて、『激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす』との趣旨で、本年度より国民の祝日となりました。 ちなみに...『みどりの日』は5月4日です。。。 『昭和』という時代は、わが国有史以来...他国との戦争で、徹底的に焼き尽くされ、多くの同胞を失い、初めて他国に主権を奪われ...国体が根底から覆されそうに(覆された?)なった、未来の日本人が、忘れてはならない激動の時代であったと思います。 『昭和』という元号の由来は、儒教の四書五経の書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」が由来となっており、この元号に込められた『国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う』という願いは、皮肉にも...有史以来もっとも国民の命と他国の人々の命が失われた戦乱の時代となってしまいました。 また、大正天皇が崩御された際、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が、次の元号は「光文」であるとスクープしましたが、宮内省(当時)が発表した元号は「昭和」となり、大誤報事件(光文事件)となってしまいました。 一説には、宮内省発表前に、新聞報道されたことに宮内省が腹を立て、急遽「昭和」という元号にしたのだそうです。 あの新聞報道がなければ、「昭和」という元号は「光文」という元号だったのかもしれませんね。 ちなみに...昭和元年は、1926年の12月25日からで、わずか6日間のみ...ですから、昭和元年生まれのひとは、貴重なんだそうです。 本年度から始まった『昭和の日』...、『激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす』という趣旨にちなんだ催し物が各地で開催されたのでしょうか... 黄金週間のスタートの日として、ただの休日にするのではなく、昭和という時代...そしてその時代の歴史上の出来事を、それぞれで顧みるようになってほしいと思います。 しかし...マスメディアの「昭和の日」を意図的とも思える無視する姿勢は、悲しいですね。 コメント(0) |
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2007/04/29 11:01:06 |
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昨日は、うちの娘の13祝いでした。 今日、従兄弟の結婚式があり、那覇から弟の家族も来ており、弟の長女もうちの娘と同い年なので、一緒に13祝いをすることに... まず...村の人気者の写真館で、写真撮影をして頂く事に... 洋装・和装両方で写真撮影して頂きましたが、ドレスアップした娘の姿に、ちょっと感動...お父さんがJC活動に明け暮れていたいた間に、しっかりと成長していたんですね〜 生意気盛りのツンケンしたうちの娘を笑わせようと、村の人気者も大変だったのでは... 素敵な写真が出来上がるのを楽しみにしております。 写真撮影の後...うちの義兄が住職をしている八重山本願寺で、厄払いをして頂き、親戚一同で祝って頂きました。 子供の成長って...あっという間ですね。。。
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2007/04/10 01:19:47 |
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パラオ-2-です。 その前に、昨日は統一地方選挙の開票日でした。 夏の参議院選挙を占う選挙戦だと言われておりましたが、結果は...与野党の勝敗結果は...ほぼ引き分けという結果でしたね。 その中でも、注目は、首都決戦...東京都知事選挙。 逆風の中、3期目を狙う石原慎太郎氏(自民.公明支援)に対し、改革派知事として全国的に有名であった浅野史郎氏(民主・社民支援)の事実上の戦いとなりましたが、石原氏が大差で浅野氏を破り、3期目の当選を果たしました。 今朝のある全国紙には、「太陽世代と団塊世代の戦いは、太陽世代の勝ち」とありました。太陽世代とは、石原氏の芥川賞受賞作品「太陽の季節」にちなみ、昭和一桁生まれの世代と、終戦直後生まれで学生運動が盛んだった団塊世代の浅野氏の戦いを捩ってこのように表現したようですが... 石原氏は、意外と..若い世代にも絶大な人気があるようで、若者やいわゆる無党派層からも多くの支持を受けていたようです。 日本の古き良き時代の「親父」のようなリーダーが必要とされているのでしょうね。 また、隔世遺伝の法則が働いたのかもしれません... 隔世遺伝とは...息子(娘)は父(母)親みたいになりたくないと思いながら成長するので、同じくそう思っていた父(母)親の父(母)親に似る...または共感するのだそうです。 しかし...当選後の石原氏とマスコミとのやり取りは面白かったですね〜マスコミの記者をバッタバタと切り倒す石原節は痛快でした。全国でTVに向かって拍手喝さいした人多かったんじゃないでしょうか。 今後4年間...日本の首都、東京のリーダーとして、頑張って頂きたいと思います! 前置きが長くなりましたが...パラオです。 日本は敗戦後...パラオの人々のように、戦前の日本に協力した人、また特別な思いを持っている人々に対し、あまりにも冷遇し過ぎているというか、無関心になり過ぎているのではないでしょうか...以前、ブログでも紹介した同じ日本軍として戦った台湾人や台湾の高砂義勇兵達のように... さて...画像は、パラオに架かる橋、「Japan−Palau friendship bridge」(日帛友好橋)です。 この橋は、1977年にアメリカの援助で造られた、パラオの首都コロール島と空港のあるバベルドアブ島を繋ぐ重要な橋で、KBブリッジ「Koror-Babeldaob Bridge」と呼ばれておりましたが、この橋の下請け工事を行なった韓国の建設業者の手抜き工事で、1996年に崩壊してしまいました。 この橋は、コロール島から空港へと向かう唯一の道路であり、また、バベルダオブ島からコロールへ供給されていた電気、水道などのライフラインが通っていたため、一時は国家非常事態宣言が出されたそうです。 旧KBブリッジの崩壊を受け、日本政府は、緊急の援助や仮設の橋の建設を行ないましたが、パラオ政府には、この橋を復旧するだけの資金が無かった為、日本政府はODA(政府開発援助)で、新しく橋を建設することにし、1997年に鹿島建設が工事に着手...2002年1月に完成し供用開始されました。 パラオの大動脈であったKBブリッジの完成で、パラオの人々は喜び、パラオの子供達は、工事を行なった鹿島建設の名前を覚えていた為、日本人を見ると「ありがとうカシマ」と呼んでいたそうです。 この橋の完成が、日本とパラオの交流の新たな時代のきっかけになれば...と思います。 パラオ政府観光局のホームページ 【参考・引用】 増田俊男の世界 http://www.chokugen.com/ パラオの大和魂 http://www.tamanegiya.com/paraototujimoto.html 私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/daitoua.html 私は、過去の戦争を賛美したり正当化するつもりは毛頭ありません..むしろ、国を愛する崇高な志をもった多くの方々の命を失わせ、やる必要の無い中国と戦争し、多くの中国人の命を奪った当時の軍国主義が残念でなりません。また、過去の日本がすべて悪かったという政治家や言論人、マスメディアには決して賛同出来ません。東京裁判史観も否定しています。 私は、歴史研究家でも政治を志す人間でもなんでもありません、日本を..郷土八重山を愛する普通の会社員です。 そんな私が、戦争で亡くなった多くの日本人が、どういう思いで戦って..散華していったのか...それを少しずつ紐解いていったら、当時の日本人は、現代の日本人以上に平和を希求し、崇高な志を持って、国や郷土の未来に対して責任持っていたのだと思い知るようになりました... 最後に..これを... http://nandakorea.sakura.ne.jp/media/sinjituwadokoni.swf
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2007/04/07 11:39:25 |
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この旗..どこの国の国旗だと思いますか? 東京から南に3,000km、フィリピン-ミンダナオ島の東側にある、美しいサンゴ礁に囲まれた...人口、わずか2万人の小さな国、『パラオ共和国』の国旗です。 パラオ共和国は、戦後...国連-アメリカによる信託統治-ミクロネシア地域の統一国家を経て、1994年に独立し国連加盟を果たしました。 パラオと日本...実は大きな繋がりがあります。 第1次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議にて、それまでドイツ領であったパラオは、日本の委任統治領となり、1945年の敗戦までの30数年間にわたり、パラオを統治しておりました。パラオ諸島の中心地コロールには、日本の南洋庁が置かれ、多くの日本人が移住してます。 パラオが独立した際の大統領は、日系人のナカムラ・クニオ氏で、現在でも、パラオ国民の多くが、日本に由来がある名前をつけている人が多く、日本の文化が今でも残っているそうです。 そして...青地に黄色の日本の国旗に良く似たパラオの国旗は、日本の「日の丸」に対して「月の丸」と言われ、独立時にパラオ国民から応募された国旗のデザインのコンテストで、多くのパラオの人々が親近感を持っている日本の国旗に近い青地の黄色の丸の国旗が選ばれたのだそうです。 国旗の青地は、太平洋の海の青、そして中央から少しずれた黄色の丸は、収穫や自然の循環、年中行事に重要な役割を果たしている月を現しています。 なぜ...パラオの人々は、日本に対して、このような親近感を持っているのでしょうか... 第1次世界大戦後、日本の委任統治となったパラオに、稲作や、なす、きゅうりなどの野菜、サトウキビ、パイナップルなどを持ち込み、缶詰めやビールなどの工場をつくり雇用を創出し、道路を舗装し橋をかけ、電気を通し、電話を引くなどのインフラ整備も積極的に行い、住民全てに対して、数種の疾病に対する予防接種を受けさせました。また、公教育をパラオの子供達に受けさせております。 そして、第2次世界大戦で、国際連盟を脱退した日本は、引き続き、パラオの統治を続けておりましたが、アメリカとの戦闘が激化...パラオも日米の戦いの場となってしまいました。 日本軍パラオ守備隊..1万2,000人に対し、アメリカ軍の兵力は日本軍の14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍もの軍事力で、パラオの日本軍を壊滅させようと、その矛を向けて迫ってきました。 日本人を慕っていたパラオの人々は、日本人と共に米軍と戦う覚悟をしておりましたが、日本軍は、米軍の侵攻が間近に迫ると、パラオの人々を戦火の及ばない島に避難させ、日本軍だけで米軍と戦い...そして、玉砕しております。 その時の様子を現した毎日新聞に掲載されたコラムがあるので紹介します。 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。 そして...日本軍と米軍との戦闘が終わった頃...パラオの人々が、島に戻ると、玉砕した日本軍戦死者の遺体が、島の至る所に横たわっており、それを見たパラオの人々が一様に涙したそうです。 戦後...日本の委任統治に代わりパラオを統治したのはアメリカでした。 アメリカは、日本統治時代、日本が整備したインフラをことごとく取り壊し、整備された道路も剥ぎ取り、日本形式の神社も取り壊しましたが...パラオの人々は、玉砕した日本兵を供養しようと、神社を再建し、土に埋もれた多くの日本兵の遺骨を収集しました。 今でも、まだ供養されない日本兵の遺骨が、土の中に埋もれ、また洞窟の中に埋もれたままになっているそうです。 1982年に建立されたぺリリュー神社の境内には、敵国だった米軍太平洋司令艦隊のニミッツ提督の次のような言葉を刻んだ詩碑があります。 『諸国から訪れる旅人達よ、この島を守るために日本軍人が、いかに勇敢な愛国心をもって戦いそして玉砕したかを伝えられよ』 戦後...日本は、戦後の復興に邁進し、パラオの島々を忘れ去ってしまいましたが、パラオの人々は、日本に対する想いを忘れることはありませんでした。 1994年...パラオは晴れて「パラオ共和国」として独立を果たしますが、その独立式典には、各国の元首からの祝電、アメリカ海兵隊による祝賀パレード、台湾をはじめとする周辺アジア各国からの民間訪問団と民族芸能の披露があり...独立を祝う世界各国の色とりどりの国旗の中に... ...日本の国旗はなく、日本国首相からの祝電もありませんでした... 当時の首相は、社会党の村山首相です。 パラオ銀行の創設者、増田俊男氏のホームページ『増田俊男の時事直言』によると... この日各国の代表が振る色とりどりの国旗の中に日の丸の旗は無かった。そして全パラオ人が待ち望んだ日本政府からの祝電を読む声は遂に聞くことが出来なかった。私より何百倍もナカムラ大統領は悲しんだ。 私に同伴して式典に出席した江尻真理子氏と私は金持ちになった日本人ではなくパラオのペリリュ−島の激戦で戦死した日本兵1万2千名の精霊を代表して日本政府の無礼を大統領に深く陳謝した。 悲しみと、怒りに大統領の指がわずかに震えていた...
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2007/04/02 01:01:29 |
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3/30日深夜、鹿児島県徳之島へ急患輸送に飛び立った、那覇の陸上自衛隊第1混成団第101飛行隊のヘリCH47JAが、徳之島北部の天城岳山中に墜落し、乗員4人全員がお亡くなりになりました。 先月、那覇の第1混成団にて研修を受けた際、沖縄全域と奄美諸島の急患輸送を行なう第101飛行隊の紹介等も受けていたので、30日深夜に「徳之島に向かった第101飛行隊のヘリが消息不明..」という報道を聞いた時は、ショックで頭が真っ白になってしまいました。 亡くなった4人の自衛官の方々に、心から哀悼の意を表するとともにご遺族に心からお悔やみを申し上げます。 沖縄、奄美諸島は多数の離島があり、医療施設の充実していない島で急患が出た場合、陸上自衛隊の第101飛行隊や、第11管区海上保安本部の航空機が、その任務に当たっています。 八重山諸島-宮古諸島の深夜や悪天候時の急患輸送には、第11管区海上保安本部石垣航空基地のヘリが急患輸送を行ないますが、石垣島や宮古島の県立病院で対応できない場合は、陸上自衛隊のヘリがその任務を担当しています。 先月、那覇の第1混成団での急患輸送のドキュメント映像を見せて頂きましたが、夜間発着の設備が満足に整備されていない離島の空港へ、危険を覚悟で降り立ち、苦しんでいる患者や、涙を流しながら心配している家族の思いを一身に受け、無事..那覇まで送り届けるという任務を遂行する姿に感動致しました。 第101飛行隊では、昭和47年12月から急患輸送の任務を行なっており、年平均で300回..これまで7,000回以上もの任務を遂行しております。 離島の医療体制の根幹を支える任務なだけに、このような事故が起きないように、原因の究明と、安全な急患輸送任務が遂行できるように、離島を抱える各自治体の受け入れをこれまで以上に整備して頂きたいと思います。 今回の事故で亡くなった、機長の建村善知さん(54)は、墜落した場所の徳之島出身で、定年退職を前にして、近々..任務が終わる予定だったのだそうです。 ......改めて、ご冥福をお祈り致します。
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2007/04/30 01:31:55