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日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
オリーブ山の説教には携挙のことが書かれている?(3)
2021/06/08 19:35:53 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
3.「取られる人」と「残される人」は誰か

マタイ24章36〜42節が携挙のことであると主張する方々の最も大きな根拠は、恐らく40節と41節の言葉だと思います。

「そのとき、畑に二人いると、一人は取られ、一人は残されます。二人の女が臼をひいていると、一人は取られ、一人は残されます。」(マタイ24:40-41)
 
前携挙説では、取られる人は「携挙される人」(天に上げられイエスとお会いし地上の艱難期を免れる人)、残される人は「携挙されない人」(地上に残される人)だと説明します。
確かに、この部分は携挙の瞬間をリアルに表現している聖句のように思えます。
実際私も以前はそのように理解をしていました。
しかし、本当にイエス様はそのような意図で語られたのでしょうか。

イエス様はこのことについて語る直前に、ノアの洪水に言及し、その出来事を比較の対象としてお話ししました。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

改めて内容を箇条書きにすると、
(1)ノアが箱舟に入るまで人々は日常生活を謳歌していた
(2)洪水が来てすべてをさらうまで、彼らはそのことに気づかなかった
(3)イエスが来られる時も同じことが起こる
という風になります。

イエス様がノアの洪水を比喩として挙げたのには理由があります。
もちろん、洪水直前まで人々が迫りくる破滅に気づかなかったように、イエスの到来の時にも多くの人が気づかないだろう、という意味もありますが、それだけではありません。
ノアの洪水は人々の罪に対する神の裁きでした。
つまり、「人の子が来る」という出来事は、ノアの洪水のように神の裁きをもたらすという性質のものである、ということです。
ところが、携挙はというと、信者が空中に引き上げられてイエスと出会い救われるとされる出来事です。
前携挙説では再臨は少なくとも携挙の7年後なので、携挙と裁きの日は違うはずです。

では、畑にいる人や臼をひいている女が、一人は取られ一人は残される、という言葉の意味は何なのか、ということが問題になります。
これは携挙される人とされない人のことではないかとよく言われます。
私はそうではないと思っています。

ここで改めてイエス様の言われた言葉をじっくりと読んでいただきたいのですが、イエス様は「ノアが箱舟に入るその日まで」と言われました。
なぜノアは箱舟に入ったのでしょうか。
取られるためでしょうか、残されるためでしょうか。
一方の箱舟に入らなかった人たちはどうだったでしょうか。
彼らは洪水で「さらわれて」しまったわけですが、それは残されたということでしょうか、取られたということでしょうか。
神は、ノア(とその家族)を箱舟の中で救い、他の人たちを洪水によって滅ぼされました。
となると、この出来事と、畑にいる人や臼をひいている女とを比較するとどういうことになるでしょうか。

そうです、取られるのは滅ぼされる人たち、すなわち裁かれる方の人たちであって、救われる人たちではないということになります。
残される人たちこそ、ノアが箱舟に残されて助かったように、救われる人たちだと理解するのが自然ではないでしょうか。

私たちは十分な考察をせず、この個所を携挙に関する聖句であるとなんとなく思わされてきたために、「取られる」ことと「残される」ことの意味を誤解してきたのではないでしょうか。
結論が完全に真逆なので、この解釈には反論したくなるものかもしれません。
しかし、ノアの洪水という破滅的な裁きとの比較であること、そしてその時に救われた者と滅ぼされた者とがどのようにしてそうなったのかを見てみるならば、そう理解するのが最も腑に落ちる理解です。
この聖句は携挙として理解すべきところではなく、イエスの再臨に際しての救われる者と裁かれる者とについての言及であると捉えるべきであると思います。

最後に、ギリシア語での扱いについても述べておきます。
「取られる」と訳されている言葉は英語ではtakeですが、ギリシア語ではパラランバノウという単語です。
この単語がヨハネ14章3節でも、イエスが信じる者たちを「取って」迎え入れるための住まいを天に用意している、という文章の中で使われています。
実は2〜3節は前携挙説を支持するとされる聖句です。
なので、マタイ24:40〜41の「取られる」はやはり携挙ではないかという議論があるわけです。

しかし、そもそもヨハネ14章2〜3節を携挙とする明確な根拠はありません。
これも普通に読めば、私たちには永遠の住まいが用意されているので、心を騒がせずイエスを信じるようにという勧めと理解することができます。
艱難前携挙説が言うように、この住まいとは7年間の艱難期の間、信者(教会)が天に上げられて祝宴に預かるための場所であると読み取るには、相当な国語力(というか、想像力)を働かせる必要があります。
そのような期間限定の住まい(仮住まい)を用意するためにイエス様は天に帰られると言われたとは考えにくいです。

以上、3つのポイントでシリーズで書いてきましたが、結論としてマタイ24章36〜42節に書かれているイエス様の言葉は、携挙についてではなく、再臨についての教えであると私は理解しています。

ご意見・ご感想お待ちしております。


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オリーブ山の説教には携挙のことが書かれている?(2)
2021/06/08 15:46:31 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
前回の続きです。

2.「ペリ・デ」は何を意味するか

マタイ24章36節冒頭に「ただし」という単語がありますが、ギリシア語ではここに「ペリ・デ」という言葉が使われています。
このペリ・デは、ある話題から別の話題に話を切り替える目的で使われることの多い言葉で、福音書や使徒の働き、パウロ書簡に何度か登場します。
第一コリントから数か所書き出します。

次に、偶像に捧げた肉についてですが〜」(第一コリント8:1)
さて、兄弟たち。御霊の賜物については〜」(同12:1)
さて、聖徒たちのための献金については〜」(同16:1)

ほぼ同じような訳し方をしていますね。
つまり、「さて〜については」と差し込むことで、その前に話していた話題をスムーズに次の話題に移行していることがわかります。
このような役割を果たす接続詞であるということから、前携挙説の方は、「イエスは35節までは再臨について語っているが、36節では話題を切り替えて携挙について語っているのだ」と説明します。
このような解釈は可能でしょうか。

まず、この主張をされる方たちは、新改訳聖書の「ただし」という訳は正しくないと言います。
新共同訳に至っては訳されてもいませんのでさらにダメ出しをします。
話題を切り替えているので「さて」とか「ところで」と訳すべきで、英語で言えば「By the way」が適訳だというわけです。
では、英語訳ではどう訳されているかと言えば、調べた範囲では8種類ありました。

But about〜(しかし〜については)NIV, NRSV, NASB
But of 〜(しかし〜については)KJ21, ASV, KJV, ASV, DARBY, NASB95, RSV, WYC
But(しかし)TLB
However(しかし) NLT
Concerning(〜については) MEV
But concerning〜(しかし〜については)LEB 
Now concerning〜(さて〜については)HCSV 
訳なし、NCV, GW, NIrV

圧倒的に、But of(しかし〜については)が多いのですが、他の訳も意味としてはほぼ同じと言っていいと思います。
日本の新共同訳系のように、そもそも訳していないのもあります。
特筆すべきは、これだけ多くの訳がある中で「By the way(ところで)」というように、完全に話題を切り替える時によく使われる言葉は一つもないということです。
和訳に「ところで」が使われなかったのもうなずけます。
実際、ギリシア語辞典やギリシア語―英語対訳聖書で調べても、「ところで」という意味は出てこず、Peri(Concerning) de(but)のような意味しか書かれていませんので、他によっぽど言語学的な根拠がない限りここは和訳にせよ、英訳にせよ、あまりケチをつけるべきではないでしょう。

しかし、事実「ただし〜」や「しかし〜」であったとして、イエス様がここで携挙のことについて言及しているという可能性はあるでしょうか。
それを解くカギは、イエス様は何に対して、「〜について(about, concerning)」と言われたのか、ということです。
これは実は文脈を読めば明らかです。
イエス様は「その日、その時については」と言われたのです。
もし携挙について話題を切り替えるのであれば、「ただし、携挙については〜」とか、少なくとも「ただし、携挙の日や時については〜」というような言い方になるはずです。
(仮定法の話をしています。携挙という言葉が聖書にないことは言わずもがなです)
「その」という代名詞はその前に出てきた言葉を受けてのことですから、いくら話題を切り替えたとしてもいきなり前振りもなくこの言葉を使うはずはありません。

ではなぜ、「その日、その時については」と言われたのでしょうか。
それは、その前の文脈でいちじくの木の譬えを話していて、その葉の様子を見たら夏が近いのを知ることができるように、様々な世の終わりのしるしを見たら、再臨が近いことを知りなさい、と警告を発しているからです。
つまり、「私の再臨の前にはいろいろなしるしがあるから、よく気をつけていなさい。でも、具体的な日にちについてはいつかは分からないですよ」と語られているにすぎません。
「再臨の予兆はあります。でもそれ(再臨の日)がいつかは分かりません。」とシンプルに理解すればいいのです。
それ以外の考え方をしなければならない積極的な理由は、「ここは携挙について語っているはずだ」という固定観念がない限りあり得ないように思います。

ちなみに、イエス様は24章36節以外でも「ペリ・デ」を使っておられます。
文脈を確認するためにその前の節から書き出してみます。
「イエスは答えられた。『あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。』」(マタイ22:29〜31、マルコ12:26は並行記事)

サドカイ派の人たちの復活についての質問に対してイエス様が答えている場面ですが、読んで分かるように、イエス様は全く違う話題に移行するためにペリ・デを用いているのではありません。
一連の復活についての教えの中で、特に強調したい部分について「〜については」と述べたのです。
これは「ところで」と訳せない言葉です。

最初に説明したように、パウロが用いた「ペリ・デ」は確かに話題を別のことに移す目的があると思われます。
それでも、「ところで」と訳せるほど全然違う話題に切り替わっているわけではありません。
訳す時には文脈を見なければなりません。
マタイ24:36は、終末について、特にイエスの再臨についての一連の教えの中の一コマです。
その文脈を踏まえた理解の仕方が必要です。
「その日、その時」とは、携挙のことを指しているのではなく、イエスの再臨についてのことであるというのが、文脈上最も自然な理解です。


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オリーブ山の説教には携挙のことが書かれている?(1)
2021/06/08 13:41:11 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
前にマタイ25章の「10人の娘たちのたとえ」について、3回にわたり個人的な解説をいたしました。
改めて25章を含む「オリーブ山の説教」と呼ばれる個所に言及したいと思います。
基本的には、聖書についてある程度詳しい方、終末論に興味のある方向けです。
全く前知識がない方には難しいテーマになるかと思いますのでご了承ください。

さて、マタイ24章と25章の2章はイエス・キリストが終末について預言した個所として知られています。
この預言全体をすでに歴史上成就したものと見なす「過去主義」と呼ばれる解釈や、逆にこれからの時代にすべて起こると理解する「未来主義」と呼ばれる解釈があります。
一方で、一部は成就したが一部はこれから起こることとするいわゆる折衷案があり、「歴史主義」と呼ばれていますが、私はこの立場に立っています。
これら一つ一つについてはここではこれ以上言及しません。

私が今日テーマにしたいのは、未来主義に立って解釈をされる方々の中に「24章は教会の携挙に言及している」という方がおられますが、果たしてそうなのかということです。
24章のどこにそれがあるのかと主張されているのかと言えば、36〜42節です。
全文書き出してみます。(訳は「新改訳2017年訳」です)。

36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 
37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 
38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 
39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。 
40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 
41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 
42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

注目すべきポイントが幾つかありますが、まずサンドイッチのパンの部分のように全体を挟み込んでいる言葉が「その日、その時は誰も知らない」ということです。
36節と42節にそれが書かれています。
書き出しと結論で繰り返されていることから、イエス様が最も言いたいことがこの部分であることは間違いないでしょう。
問題は、「その日、その時」が何を指すかということです。
これが未来主義の方々のように「携挙の日」と解釈することが可能かということを、3つのポイントから説明したいと思います。
(未来主義の解釈を取る方たちは、携挙は艱難の前に起こると解釈する「艱難前携挙説」の方たちとほぼ重なるので、以下「前携挙説」として話を勧めます。)

1.「来る(パルーシア)」という言葉

39節に、イエスはノアの洪水の例を引き合いに出して、「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようです」と語っています。
前携挙説を支持する方は、これは携挙のことだと説明しています。
果たしてそう取れるでしょうか。

ここで「来る」と訳されている単語はもともとのギリシア語で「パルーシア」という単語です。
パルーシアはイエスの再臨についてだけではなく、一般的な「到着」あるいは「到来」を表す単語として聖書中繰り返し使われています。

3つ例を挙げます。
「ステファナとポルトナとアカイコが来たので、私は喜んでいます。」(第一コリント16:17)
「しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。」(第二コリント7:6)
「そうなれば、私は再びあなたがたの元に行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。」(ピリピ1:26)

これらに共通していることは、「来る」主体は目に見える形で目的地に実際に到着し、そこの人たちと交わりをすることができた(できる)ということです。
つまり、ステファナやポルトナやアカイコやテトスやパウロは、実際の肉体を伴ってそこに行った(行くことになった)のです。
「目に見えない形で」とか「途中まで」とか「空中まで」という意味合いはその中にありません。
ところが、携挙の概念は、イエスが空中まで目に見えない形で来られて、信者を空中に引き挙げるということです。
これは、パルーシアという単語には含まれていない概念です。
よって、39節の「人の子が来る」を携挙と解釈することは困難と言えます。

さらに、問題があります。
27節でイエスはご自身の再臨について言及していますが、そこでもパルーシアが使われています。

「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。」(マタイ24:27)

この個所は内容から見てイエスの再臨であることは、前携挙説を支持される方も認めておられるところです。
同じパルーシアという単語が、わずか数節離れているだけで、一方は「再臨」を意味し、もう一方は「携挙」を意味するというのは考えにくいのではないでしょうか。
この言葉を直接聞いていた弟子たちは、そのような理解が果たしてできたでしょうか。
そもそも、弟子たちは最初にイエスに「あなたが来られ(パルーシア)世が終わるときのしるしは、どのようなものですか。」と質問しているので、弟子たちの中にあるのは一度っきりの「再臨(パルーシア)」という概念しかないはずです。

結論として、文脈上38-42節の最も自然な解釈は、「イエスが再臨される日にちは誰にも分からない」ということになります。


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