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日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(1)
2021/06/23 18:20:50 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
終末論についてのブログですが、ここらで少し核心に迫ってみようかと思います(どきどき)。
これまでちょくちょく書いてきた内容を読んでくださった方はお分かりかと思いますが、私は艱難前携挙説(ディスペンセーション主義)に否定的な立場を取っています。
教会では終末論について違う立場の人もおりますが、それぞれの違いを尊重しつつみんな和気あいあいと学んでいます(ストレス感じる人もいるかも・・)。

以降、終末論についてブログるときには、私の立場がより鮮明に出てくるかもしれませんので、あらかじめご了承ください。

テサロニケ人への手紙一、二と言えば、パウロが最初期に書いた手紙として知られ、同時にとても終末的色彩の濃い内容で知られています。
終末論ファンが絶対に避けて通れない書ですね(笑)

第一テサロニケ4章16−17節に、終末論では超おなじみの聖句が記されています。

「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

この「引き上げられ、空中で主と会う」という部分が、前携挙説支持者によって、いわゆる「信者(教会)の携挙」とか「イエスの空中再臨」と呼ばれているわけです。
携挙という言葉そのものは出てきませんが、その概念は確かに書かれています。

まず覚えなければならないのは、聖書全体の中で、明確に信者が空中に携え挙げられると記されているのは、この個所しかないということです。
それが意味するところは、少なくとも、携挙は聖書全体においても、そして終末論においても中心テーマにはなり得ないということです。
一箇所でも書かれているからには、もちろんそれを聖書の真理として受け止める必要がありますが、中心とすべきではありません。
なんといっても、イエス様ご自身が、神の国について語られ、そしてご自身の再臨や最後の裁きについて繰り返し語っているにも関わらず、携挙についてははっきりと言及していないことからも、中心でないことは明白です。(もし重要なテーマであればイエス様が教えられないはずはないですよね。)

なので「携挙」「携挙」とやたらそれを教会が強調しているとするなら、まさに軽挙妄動と言えるでしょう(・・・)。

この携挙ですが、今一つの問題は、まさしくそれがどのようにして起こるかということです。
細かくチェックし始めるとかなり複雑かつ長くなると思いますので、数回にわたって連載することになると思います。
最初に言っておきますが、これは私個人の見解ではなく、聖書が語っていることです。

第一テサロニケ4:16によれば、携挙の時には、まず「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られ」ます。
これって、よく想像していただきたいのですが、静かに知らない間にいつの間にか起こっていた、などと言う代物ではとてもないですよね。
どんな号令か、あるいは御使いの声がどんな声か、ラッパがどんな響きか、実際に聞いて見なければ分かりませんが、少なくともかなりうるさそうです。
緊急地震速報と町内アナウンスとサイレンが一度に鳴り響くようなイメージでしょうか。
多くの人たちが「いったいこれは何の音だ!?」と大騒ぎになるでしょう。
耳がだいぶ遠い私の母もしっかり聞き取れるレベルだと思います(笑)。

この時点で、レフトビハインドの映画(ニコラス・ケイジ主演)にある携挙の描写は明らかに間違っています。
突然人がいなくなることに焦点を当てていますが、音についての描写がすっぽり抜け落ちています。
何の音もなく、一瞬でクリスチャンが世界中から蒸発するようなニュアンスは、この聖句にむしろ真っ向から反しています。
もし、「いや、この音は霊的な世界で起こる音である」とか「天における音である」と主張しているとすれば、人の耳には実際に聞き取れないような音源をわざわざ3つもここにリストアップする理由がわかりません。

前携挙説者の多くは、マタイ24:36−44を携挙についての描写と信じているようですが、これについては私はそうではないと思っています。(以前のブログをお読みください)
レフトビハインドも、第一テサロニケの携挙の個所ではなく、このマタイの記事からイメージを膨らませているものと思われますが、なぜよりはっきりと語っている第一テサロニケを台本にしなかったのでしょうか。

さらに第一テサロニケを読んでいくと、ますますレフトビハインドの描写とは相入れないことがはっきりしてきます。
「主イエスが天から下って来られ」〜「キリストにある死者がよみがえり」〜「生き残っている人たちが彼らとともに引き上げられ」〜「空中で主と会う」
というのが一連の流れです。
これが、携挙と呼ばれているイベントのはずです。
イエス様がよみがえられたときには、復活の体でよみがえりましたが、弟子たちを始め多くの人たちの前に姿を現されました。
オリーブ山で天に上って行かれる時も、みんなが見ている前でそうされました。
しかもその時二人の天使が、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」と預言したことも記されています。

こうして、イエス様が下って来られることや死者が復活されることは目に見える出来事であることを聖書は語っているのに、どういうわけか、多くの人がテサロニケではなくマタイ24:40―41に実際の携挙のイメージを求めてしまっている気がしてなりません。
以前のブログに書いたように、マタイ24章は、守られるために「残される」人と裁かれるために「取られる」人がいると理解する方が自然な理解であり、前携挙説の理解とは真逆の可能性が大なのです。

唯一の明確な携挙についての聖句である第一テサロニケ4章(と次の5章)をじっくりと読むなら、レフトビハインドに代表される前携挙説の説明は矛盾が多いと言わざるを得ません。
そして次のブログで述べますが、この個所から、携挙をイエス様の「地上再臨」と切り離し、地上再臨は艱難の後にあるが、携挙はいつでも突然起こり得るのだ、とする結論を導くことは極めて困難です。



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