ごーやーどっとネット沖縄  [PR]世界中の美女たちが沖縄に集結! こんにちは ゲスト さん。 ログイン・ブログをはじめる  
日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(2)
2021/07/13 17:36:18 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
テサロニケとレフトビハインド(艱難前携挙)について考えるシリーズ2回目になります。
(前回の予告と違う内容になりますがご了承ください・・)

携挙についてはっきりと書いてあるところは第一テサロニケ4章16-17節しかないと前に申し上げました。
一方で、それ以外にもあると主張されている方もいます。
例えば、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの中川健一師は第8回再臨待望聖会のレジメに、聖書には以下の6種類の携挙が記録されているとしています。
1)エノク(創世記5:24、へブル11:5)
2)エリヤ(第二列王記2:1,11)
3)主イエスの昇天(マルコ16:19,使徒1:9−11、黙示録12:5)
4)パウロ(第二コリント12:2−4)
5)普遍的教会
6)大患難時代における二人の証人(黙示録11:3、11−12)

さらに、携挙に関連した聖句として第一テサロニケの他に、ヨハネ14:1−3、第一コリント15:51−53をあげています。

これら一つ一つについて言及することはしませんが、これらの聖句に書かれているのは本来の意味での携挙そのものではなく、良くて携挙の「型」と言うべきものです。
終末において信者がイエスと空中でお会いするために引き挙げられるという本来の意味での携挙についての明確な言及は、やはり第一テサロニケ4:17だけでしょう。

しかし、実を言えば、表現の仕方は違いますが、携挙のことであろうと強く示唆される個所が第二テサロニケ2章とマタイ24章に書かれています。

「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24:31)

「さて、兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。」(第二テサロニケ2:1)

ここには、「人の子が選んだ者たち」もしくは「私たち」が「集められる」と書かれていますが、どちらの文脈を見ても、イエスの再臨の時にそれが起こることがわかります。
内容や表現がよく似ていることから、結論で申し上げるように、この二つは同じ出来事を示していると考えられます。
「携え挙げられる」と「集められる」ではだいぶ意味が違って聞こえますが、両方とも自分の意志でできることではなく、別の何かによって「させられる」出来事である点で共通しています。

ところで、艱難前携挙説に立つ人たちの多くは、上記のマタイの聖句は終末におけるユダヤ人の回復について語っていると説明します。(ちなみに第二テサロニケとの関連性についてはなぜか沈黙しています。)
実際そのような解釈は可能でしょうか。
「人の子が選んだ者たち」についてさらに深堀してみます。

「人の子が選んだ者たち」はギリシア語で「エクレクトゥース アウトゥー」であり、直訳すると「彼に選ばれた者たち」英語では「His chosen ones」「His elect」などとなります。
このエクレクトゥースや、その語幹「エクロ(選び)」が使われている新約聖書の他の個所には以下があります。

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(マタイ22:14)

「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:33)

「ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みではなくなります。では、どうなのでしょうか。イスラエルは追い求めていたものを手に入れず、選ばれた者たちが手に入れました。ほかの者たちは、頑なにされたのです。」(ローマ11:5―7)

「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」(コロサイ3:12)

「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」(第一テサロニケ1:4)

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の者とされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(第一ペテロ2:9)

ざあっと並べて一つ一つの文章をじっくりと文脈に沿って確認すると、「選ばれている者」が誰を意味しているかは明らかです。
神の恵みによりイエスを主と信じ受け入れている人たちです。
イスラエルと解釈すべき個所は一つもありません。

これらの中で注目すべき聖句の一つは、イスラエルの「残りの者(レムナント)」について言及しているローマ11章5−7節です。
7節の「選ばれた者たち」は確かに一部のイスラエル人を指しています。
しかし、民族的ユダヤ人やイスラエル国家全体ではなく、神の恵みによってイエスをメシアと信じている少数のイスラエル人のことです(今で言うメシヤニックジューですね)。
ですので、イエスのメシア性を信じない頑なな他の大多数のイスラエル人のことを「ほかの者たち」として区別しています。
結局この聖句も、選びはただ神の恵みによるものであるということが強調されているのであって、選ばれし者=イスラエルと言っているわけではないのです。

さて、話をマタイ24:31と第二テサロニケ2:1に戻します。
主のみもとに集められるのは、マタイでは「人の子が選んだ者たち」ですが、上記の聖句とその解釈の原則に基づけば、前携挙説者が主張されるようにこれをイスラエルと定義することは困難と言わざるを得ません。
しかし単純に二つの聖句が同じことを指していると考えるなら、第二テサロニケによれば「集められる」のは「私たち」ですから、辻褄がぴったり合います。
そしてより大切なことは、どちらの聖句でも、私たちが集められるのはイエス様が再臨される時であるということです。
参考までに、第二テサロニケの「私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して」のフレーズは、「関して」という語がイエスの来臨と私たちが集められることの両方を受けていて、この二つが一つの出来事の両側面であることを示唆しています。

結論として、異邦人、イスラエル人の別を問わず、神の恵みにより信仰によって救われた人たちが、主の再臨(パルーシア)の時に、神のみもとに集められる(空中で主イエスとお会いする)のだと私は信じています。
それは第一テサロニケ4:17の再臨時の携挙に符合する考え方で、携挙は再臨の数年前にある日突然起こるとの見方は困難であると考えます。


コメント(0)
トラックバック(0)