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テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(3)
2021/07/16 22:20:02 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
今回のテーマはとても深く(かつ重く)、また誤解されやすいところなので、じっくりと3回にわたって書いてみます。

テサロニケ人へ第一の手紙で特徴的な終末論的概念の一つは「御怒り(神の怒り)」に関するものです。
ちなみに、御怒りと訳されている単語のほとんどはギリシア語ではオルゲ―と言います。

御子が天から来られるようになるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。(1:10)

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエスキリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(5:9)

ここには、イエスキリストを信じる者は「御怒り」を受けることはなく、救われるという約束が明記されています。
とても嬉しい約束ですね。
問題は、この「御怒り」は何を指しているのか、ということです。

艱難前携挙説支持者は、「御怒り」=「(大)艱難時代」と主張します。
つまり、神の怒りとは、イエス様の再臨前に起こるであろうと予想される、とんでもない天変地異や、世界の人口の数十パーセントが死に絶えてしまうようなとてつもなく困難で恐ろしい数年間のことであると。
またこの期間は反キリストや偽預言者など悪しき勢力が台頭し、多くの人々を惑わすと聖書は語っています。
もしこの解釈が正しければ、「クリスチャン(教会)が御怒りに遭うことはない=教会は艱難時代を通らない」という意味になり、艱難前に携挙されるという概念が現実味を帯びたものになります。

この前提に立つ方たちは、よく次のような3段論法を用いて自身の説の正しさを主張します。
A)神は教会を御怒りに遭わせることはない。
B)大患難時代は神の御怒りの時である。
C)ゆえに教会は大患難時代を通らない。
例えば、大変有名な伝道者である高原剛一郎師も実に巧みな話術でこれを力説されています。

この説の根拠になっているのは、下記のように黙示録の艱難時代の描写の中で「御怒り」という言葉が何度も使われていることだと思われます。

地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座についておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示録6:15−17)

諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。(同11:18)

黙示録の他にも、旧約聖書の終末預言の中に神の怒りに関する言及が多いですね(ダニエル書8:19、11:36、ゼパニヤ書3:8等)。
確かに、これらの聖句を見ると終末の艱難時代は神の怒りと大きく関係していると言えます。
ということは、やはり「神の怒り=艱難時代」と理解すべきなのでしょうか。

しかし、ちょっと待ってください。
先ほど紹介した三段論法は、2番目の文の前提条件が正しければ確かにその通りですが、果たして本当にそうでしょうか。
聖書に書かれている「御怒り」は常に艱難時代のことでしょうか。
別の言い方をすれば、「御怒り」は「艱難時代」という言葉に置き換え可能でしょうか。
この理解の仕方によって、私たち(教会)が艱難時代を通るのか通らないのか、大きく意見が二分されることになります。

結論を先に言えば、御怒りを艱難時代に置き換えるとかなり強烈な違和感が生じます。
ジグゾーパズルの欠けた所に無理やり違う形のピースを押し込めようとするような・・。
一方、御怒りを艱難時代ではなく、「神の裁き」あるいは「滅び」とするとほとんど違和感なく文章の意味が通ります。
御怒りは艱難時代というある一定の期間ではなく、艱難時代の最後にキリストが再臨されて下される裁きのことであると私は理解しています。(マタイ25章31節以下参照)
実は先ほどの黙示録の2か所も、よく読んでみると、「神と子羊の御怒りの、大いなる日(the great day of their wrath)」(6:17)という風に「日」は単数で表していますし、11:18でも御怒りは「死者がさばかれる時」「地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時」としていて、艱難時代の描写としては不自然で、悪しき者が滅ぼされる裁きとする方がしっくりきます。(*ちなみに「七つの鉢から神の怒りを地に注げ」(黙示録16:1)などで使われる「怒り」はオルゲ―ではなくトゥモスという別の単語で、パウロは使用していません。)

次のブログで、5か所のパウロ書簡の聖句からこれを確認してみたいと思います。



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