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日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(5)
2021/07/17 17:33:52 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
「御怒り」についてのシリーズ3回目、これが最後です。

一般的に、艱難前携挙説支持者は「御怒り」については艱難時代であるとする一方で、一般的に艱難とされているものは艱難時代における艱難ではないと言う解釈をしています。
つまり、艱難には2種類あって、どの世代も共通して経験する様々な困難(例えば病気、貧困、苦痛、災害、迫害など)と、この世の終わりに訪れる地球規模の破滅的艱難があり、本物のクリスチャン(教会)は前者は経験するが、後者は経験しないと結論付けているのです。

どんなクリスチャンでも艱難を経験するということはその通りで、証明するまでもないことです。
むしろ、クリスチャンだからこそ遭遇する艱難がなんと多いことでしょうか。
考えてみれば、イエス様自身が恐ろしい艱難を体験し、弟子たちもその信仰ゆえに同じような艱難や迫害を体験しました。
クリスチャン生活は平安や保護や健康や繁栄どころか、その真逆である場合も実に多いのです。
聖書にはクリスチャンが必ず艱難に直面するということが繰り返し語られていて、下記の聖句はその一部です。(*新改訳2017では「苦難」という言葉が多く用いられています。)

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。(ローマ5:3−4)

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。(同8:18)

あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。(第一テサロニケ3:4)

このような聖句を並べると、クリスチャンになるって相当な覚悟が必要だとさえ思いますね。

さて、ここからが問題ですが、前携挙説者はなぜ、これらの日常的な艱難を世の終わりの艱難時代と区別し、後者の方は私たちは経験しない(つまり、その前に携挙される)と主張しているのでしょうか。
その理由をざっくり言えば、日常的な苦難はサタンからのものである一方、艱難時代は神からのものと考えているからです。
つまり、神はご自身に従う者を自ら主体的に艱難に遭わせるようなことはなさらないという考えから、艱難時代が神の御怒りの時であるならば、その大患難は悪しき者たちだけにもたらされるはずで、教会はその前に地上から取り上げられていなければならない、という法則を導いているように見受けられます。

しかし、この二元論的考え方自体が、あまりに物事を単純化し過ぎているのではないでしょうか。
果たして聖書はそれほど明確にサタンから来る苦難と神から来る苦難とを区別しているでしょうか。
ここでは詳しく議論しませんが、例えば、重い障害をもって生まれた人たちが経験する苦しみはサタンからのものか、あるいは神からのものか、などと単純に言えるわけがありません。

世の終わりの艱難時代は、確かに歴史上誰も経験したことのない壊滅的艱難であり、もし今の時代にそれがやって来るなら、できるなら避けて通りたいと思うのはやまやまです。
しかし、聖書は決して艱難時代を他の一般的な艱難と明確に区別しておらず、イエス様のオリーブ山の説教や黙示録に書かれている世の終わりの大患難を、教会は通過しないと断言できるいかなる聖句も見出せないのです。
「御怒り=艱難時代」と仕立て上げることで、自分たちだけはこの苦しみに遭わずに済むと考えているなら、これまでに流されてきた数えきれないほどの殉教者の血や、今なおアフリカやアジアで信仰ゆえに迫害を受け続けているサバイバーたちの目から見て、あまりに「お花畑」過ぎなのではないかと言うと言い過ぎでしょうか。

艱難前携挙説に立つカルバリーチャペルの故チャック・スミス氏が「艱難と教会」というテーマで語っている説教の中で、次のような趣旨のことを述べています。
「神が正しい人を悪人と一緒に裁いたことは歴史上未だかつてない。例えば、アブラハムがソドムとゴモラのために神に執り成しをしたのは、神は正しい人を悪しき人と一緒に裁かないという、神の公正なご性質を前提にしている。そして実際ロトがその町を出るまで、神は裁きを下されなかった。この神のご性質は今も変わらない。ゆえに、艱難時代に神が御怒りを正しい人の上に下すことは絶対にない。」

この解釈の途中までは完全に同意します。
神様は正しい人と悪しき人を同じように裁くことをなさいません。
それは今も変わりません。
しかし、最後の文章の結論部分は論理の飛躍と言わざるを得ません。
前回申し上げたように、「艱難時代=御怒り」ではないし、ましてや「艱難時代=裁き」でもないからです。

義人に対する裁きと悪人に対する裁きは違います。
だからこそ、艱難に直面しているクリスチャンたちはその約束の上に立って忍耐を持ち続け、たとえ死ぬようなことになっても信仰を捨てずに、神の裁きに身を委ねることができたのです。
その原則は艱難時代でも同じであると考えるのが自然です。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。(第二テサロニケ1:6−7)

神様はすべての人に艱難が降り注ぐことを許されます。
今後この世の中はますます混とんとしていき、自然破壊はさらに加速化し、災害は増え、人々の愛は冷え、教会に対する迫害は世界的に拡大し、キリストに従い続けるのが今よりはるかに困難な時代がやって来ることが予想されます。
しかし、どんなにその艱難が想像を絶するようなものであっても、それは一時的であって、永遠の滅びに比べると言うに及びません。
私たちは神の御怒りから救われ、永遠の住まいを得ていますから、艱難時代を恐れることはないのです。


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テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(4)
2021/07/17 17:25:23 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
以下に御怒り(オルゲ―)という言葉が使われている聖句を抜き出し、その意味を考えてみます。

1)あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。(ローマ2:5)

この文脈では、御怒りの日は、頑なで悔い改めない人たちの上に神の裁きが下る日であるとしています。
つまり御怒りの日=神の裁きの日です。
一方で、「日(a day)」は単数なので「艱難時代」という期間(days)に置き換えることはできません。

2)では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。(同3:5―6)

この文脈では、神が御怒りによって世界を裁くことは正当なことだと語られています。つまり、御怒りは神の裁きとほぼ同義と理解できます。

3)ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。(同5:9)

この個所はキリストの血による贖いとそれによる救いについて語っています。キリストの十字架の救いは永遠の滅びからの救いですから(ヨハネ3:16)、ここでも神の怒りは神の裁き、または滅びと言い換えることができます。

4)それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。(同9:22)

この聖句は、元々その後の23,24節と一続きの文章です。ここで「御怒り」は、「滅ぼされるはずの怒りの器」に注がれるはずだったのに、神が忍耐しておられることが記されています。御怒りと滅び(悪しき者の裁き)が関連付けられています。

5)私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:3)

この個所では、すべての人は罪の中に生まれるゆえ、そのままでは「御怒り」に遭うと書かれています。これは裁かれて永遠の滅びに至るという意味であって、終末時代に生きる一世代だけが通過する艱難時代では意味が通りません。


以上5つの代表的な聖句を見てみました。
神の御怒りは艱難時代と置き換えることは困難ですが、神の裁きには置き換え可能です。

それを言うと「艱難時代は神の裁きの時だから、同じではないか」というご指摘があるかもしれません。
しかし、艱難時代=神の裁きではありません。
それは私たちが日常的に体験する艱難や苦しみが神の裁きでないのと同じです。
終末的裁きは、永遠の命か永遠の滅びかの判決が下される時で、艱難時代そのものではなく、その最後に待ち受けているものです。
ゆえに、裁きの日は常に単数で書かれているのです。
良い譬えか分かりませんが、サッカーの試合で90分間一方的に攻められ続けるということと、最終的に試合に負けることとは違います。(圧倒的に攻められてもワンチャンスで勝利する場合もありますね。)
次のブログにも書きますが、この違いを理解することで、艱難時代に対する向き合い方が大きく変わります。

しかし言葉の使い方以上に大切なことは、私たちがイエス・キリストの贖いによって永遠の滅びから救われているという事実です。
パウロはテサロニケ人への手紙においてもローマ人への手紙においても、キリストの十字架の贖いによって私たちは義とされ救われて、永遠の命を与えられているということに焦点を当てています。
しかし、神の愛と忍耐にもかかわらず、キリストの十字架を最後まで拒絶しキリストに敵対する人に待っているのは、裁きであり永遠の滅びです。
パウロは何としてもそこから救われるように訴えているのであって、艱難時代そのものについてはパウロの念頭にほとんどなかったのではないかとさえ思います。
と言うより、どれだけひどい艱難が地上であってもそれは一時であって、永遠の時間をどう過ごすのかということの方がパウロにとってははるかに重要な関心事であったはずです。

「神の怒りに遭うことはない」という第一テサロニケの言葉を、終わりの時代の最後に訪れるであろう数年間の艱難期を私たちが通過しないというレベルに矮小化すべきではありません。
そうではなく、キリストを信じキリストに従う者は、永遠の滅び、もっとストレートに言えば「地獄」に行くことは決してない、というはるかにスケールの大きな、まさに宇宙的な神の御業についてのメッセージなのではないでしょうか。



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テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(3)
2021/07/16 22:20:02 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
今回のテーマはとても深く(かつ重く)、また誤解されやすいところなので、じっくりと3回にわたって書いてみます。

テサロニケ人へ第一の手紙で特徴的な終末論的概念の一つは「御怒り(神の怒り)」に関するものです。
ちなみに、御怒りと訳されている単語のほとんどはギリシア語ではオルゲ―と言います。

御子が天から来られるようになるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。(1:10)

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエスキリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(5:9)

ここには、イエスキリストを信じる者は「御怒り」を受けることはなく、救われるという約束が明記されています。
とても嬉しい約束ですね。
問題は、この「御怒り」は何を指しているのか、ということです。

艱難前携挙説支持者は、「御怒り」=「(大)艱難時代」と主張します。
つまり、神の怒りとは、イエス様の再臨前に起こるであろうと予想される、とんでもない天変地異や、世界の人口の数十パーセントが死に絶えてしまうようなとてつもなく困難で恐ろしい数年間のことであると。
またこの期間は反キリストや偽預言者など悪しき勢力が台頭し、多くの人々を惑わすと聖書は語っています。
もしこの解釈が正しければ、「クリスチャン(教会)が御怒りに遭うことはない=教会は艱難時代を通らない」という意味になり、艱難前に携挙されるという概念が現実味を帯びたものになります。

この前提に立つ方たちは、よく次のような3段論法を用いて自身の説の正しさを主張します。
A)神は教会を御怒りに遭わせることはない。
B)大患難時代は神の御怒りの時である。
C)ゆえに教会は大患難時代を通らない。
例えば、大変有名な伝道者である高原剛一郎師も実に巧みな話術でこれを力説されています。

この説の根拠になっているのは、下記のように黙示録の艱難時代の描写の中で「御怒り」という言葉が何度も使われていることだと思われます。

地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座についておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示録6:15−17)

諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。(同11:18)

黙示録の他にも、旧約聖書の終末預言の中に神の怒りに関する言及が多いですね(ダニエル書8:19、11:36、ゼパニヤ書3:8等)。
確かに、これらの聖句を見ると終末の艱難時代は神の怒りと大きく関係していると言えます。
ということは、やはり「神の怒り=艱難時代」と理解すべきなのでしょうか。

しかし、ちょっと待ってください。
先ほど紹介した三段論法は、2番目の文の前提条件が正しければ確かにその通りですが、果たして本当にそうでしょうか。
聖書に書かれている「御怒り」は常に艱難時代のことでしょうか。
別の言い方をすれば、「御怒り」は「艱難時代」という言葉に置き換え可能でしょうか。
この理解の仕方によって、私たち(教会)が艱難時代を通るのか通らないのか、大きく意見が二分されることになります。

結論を先に言えば、御怒りを艱難時代に置き換えるとかなり強烈な違和感が生じます。
ジグゾーパズルの欠けた所に無理やり違う形のピースを押し込めようとするような・・。
一方、御怒りを艱難時代ではなく、「神の裁き」あるいは「滅び」とするとほとんど違和感なく文章の意味が通ります。
御怒りは艱難時代というある一定の期間ではなく、艱難時代の最後にキリストが再臨されて下される裁きのことであると私は理解しています。(マタイ25章31節以下参照)
実は先ほどの黙示録の2か所も、よく読んでみると、「神と子羊の御怒りの、大いなる日(the great day of their wrath)」(6:17)という風に「日」は単数で表していますし、11:18でも御怒りは「死者がさばかれる時」「地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時」としていて、艱難時代の描写としては不自然で、悪しき者が滅ぼされる裁きとする方がしっくりきます。(*ちなみに「七つの鉢から神の怒りを地に注げ」(黙示録16:1)などで使われる「怒り」はオルゲ―ではなくトゥモスという別の単語で、パウロは使用していません。)

次のブログで、5か所のパウロ書簡の聖句からこれを確認してみたいと思います。



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テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(2)
2021/07/13 17:36:18 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
テサロニケとレフトビハインド(艱難前携挙)について考えるシリーズ2回目になります。
(前回の予告と違う内容になりますがご了承ください・・)

携挙についてはっきりと書いてあるところは第一テサロニケ4章16-17節しかないと前に申し上げました。
一方で、それ以外にもあると主張されている方もいます。
例えば、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの中川健一師は第8回再臨待望聖会のレジメに、聖書には以下の6種類の携挙が記録されているとしています。
1)エノク(創世記5:24、へブル11:5)
2)エリヤ(第二列王記2:1,11)
3)主イエスの昇天(マルコ16:19,使徒1:9−11、黙示録12:5)
4)パウロ(第二コリント12:2−4)
5)普遍的教会
6)大患難時代における二人の証人(黙示録11:3、11−12)

さらに、携挙に関連した聖句として第一テサロニケの他に、ヨハネ14:1−3、第一コリント15:51−53をあげています。

これら一つ一つについて言及することはしませんが、これらの聖句に書かれているのは本来の意味での携挙そのものではなく、良くて携挙の「型」と言うべきものです。
終末において信者がイエスと空中でお会いするために引き挙げられるという本来の意味での携挙についての明確な言及は、やはり第一テサロニケ4:17だけでしょう。

しかし、実を言えば、表現の仕方は違いますが、携挙のことであろうと強く示唆される個所が第二テサロニケ2章とマタイ24章に書かれています。

「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24:31)

「さて、兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。」(第二テサロニケ2:1)

ここには、「人の子が選んだ者たち」もしくは「私たち」が「集められる」と書かれていますが、どちらの文脈を見ても、イエスの再臨の時にそれが起こることがわかります。
内容や表現がよく似ていることから、結論で申し上げるように、この二つは同じ出来事を示していると考えられます。
「携え挙げられる」と「集められる」ではだいぶ意味が違って聞こえますが、両方とも自分の意志でできることではなく、別の何かによって「させられる」出来事である点で共通しています。

ところで、艱難前携挙説に立つ人たちの多くは、上記のマタイの聖句は終末におけるユダヤ人の回復について語っていると説明します。(ちなみに第二テサロニケとの関連性についてはなぜか沈黙しています。)
実際そのような解釈は可能でしょうか。
「人の子が選んだ者たち」についてさらに深堀してみます。

「人の子が選んだ者たち」はギリシア語で「エクレクトゥース アウトゥー」であり、直訳すると「彼に選ばれた者たち」英語では「His chosen ones」「His elect」などとなります。
このエクレクトゥースや、その語幹「エクロ(選び)」が使われている新約聖書の他の個所には以下があります。

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(マタイ22:14)

「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:33)

「ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みではなくなります。では、どうなのでしょうか。イスラエルは追い求めていたものを手に入れず、選ばれた者たちが手に入れました。ほかの者たちは、頑なにされたのです。」(ローマ11:5―7)

「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」(コロサイ3:12)

「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」(第一テサロニケ1:4)

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の者とされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(第一ペテロ2:9)

ざあっと並べて一つ一つの文章をじっくりと文脈に沿って確認すると、「選ばれている者」が誰を意味しているかは明らかです。
神の恵みによりイエスを主と信じ受け入れている人たちです。
イスラエルと解釈すべき個所は一つもありません。

これらの中で注目すべき聖句の一つは、イスラエルの「残りの者(レムナント)」について言及しているローマ11章5−7節です。
7節の「選ばれた者たち」は確かに一部のイスラエル人を指しています。
しかし、民族的ユダヤ人やイスラエル国家全体ではなく、神の恵みによってイエスをメシアと信じている少数のイスラエル人のことです(今で言うメシヤニックジューですね)。
ですので、イエスのメシア性を信じない頑なな他の大多数のイスラエル人のことを「ほかの者たち」として区別しています。
結局この聖句も、選びはただ神の恵みによるものであるということが強調されているのであって、選ばれし者=イスラエルと言っているわけではないのです。

さて、話をマタイ24:31と第二テサロニケ2:1に戻します。
主のみもとに集められるのは、マタイでは「人の子が選んだ者たち」ですが、上記の聖句とその解釈の原則に基づけば、前携挙説者が主張されるようにこれをイスラエルと定義することは困難と言わざるを得ません。
しかし単純に二つの聖句が同じことを指していると考えるなら、第二テサロニケによれば「集められる」のは「私たち」ですから、辻褄がぴったり合います。
そしてより大切なことは、どちらの聖句でも、私たちが集められるのはイエス様が再臨される時であるということです。
参考までに、第二テサロニケの「私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して」のフレーズは、「関して」という語がイエスの来臨と私たちが集められることの両方を受けていて、この二つが一つの出来事の両側面であることを示唆しています。

結論として、異邦人、イスラエル人の別を問わず、神の恵みにより信仰によって救われた人たちが、主の再臨(パルーシア)の時に、神のみもとに集められる(空中で主イエスとお会いする)のだと私は信じています。
それは第一テサロニケ4:17の再臨時の携挙に符合する考え方で、携挙は再臨の数年前にある日突然起こるとの見方は困難であると考えます。


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テサロニケ人への手紙とレフトビハインド(1)
2021/06/23 18:20:50 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
終末論についてのブログですが、ここらで少し核心に迫ってみようかと思います(どきどき)。
これまでちょくちょく書いてきた内容を読んでくださった方はお分かりかと思いますが、私は艱難前携挙説(ディスペンセーション主義)に否定的な立場を取っています。
教会では終末論について違う立場の人もおりますが、それぞれの違いを尊重しつつみんな和気あいあいと学んでいます(ストレス感じる人もいるかも・・)。

以降、終末論についてブログるときには、私の立場がより鮮明に出てくるかもしれませんので、あらかじめご了承ください。

テサロニケ人への手紙一、二と言えば、パウロが最初期に書いた手紙として知られ、同時にとても終末的色彩の濃い内容で知られています。
終末論ファンが絶対に避けて通れない書ですね(笑)

第一テサロニケ4章16−17節に、終末論では超おなじみの聖句が記されています。

「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

この「引き上げられ、空中で主と会う」という部分が、前携挙説支持者によって、いわゆる「信者(教会)の携挙」とか「イエスの空中再臨」と呼ばれているわけです。
携挙という言葉そのものは出てきませんが、その概念は確かに書かれています。

まず覚えなければならないのは、聖書全体の中で、明確に信者が空中に携え挙げられると記されているのは、この個所しかないということです。
それが意味するところは、少なくとも、携挙は聖書全体においても、そして終末論においても中心テーマにはなり得ないということです。
一箇所でも書かれているからには、もちろんそれを聖書の真理として受け止める必要がありますが、中心とすべきではありません。
なんといっても、イエス様ご自身が、神の国について語られ、そしてご自身の再臨や最後の裁きについて繰り返し語っているにも関わらず、携挙についてははっきりと言及していないことからも、中心でないことは明白です。(もし重要なテーマであればイエス様が教えられないはずはないですよね。)

なので「携挙」「携挙」とやたらそれを教会が強調しているとするなら、まさに軽挙妄動と言えるでしょう(・・・)。

この携挙ですが、今一つの問題は、まさしくそれがどのようにして起こるかということです。
細かくチェックし始めるとかなり複雑かつ長くなると思いますので、数回にわたって連載することになると思います。
最初に言っておきますが、これは私個人の見解ではなく、聖書が語っていることです。

第一テサロニケ4:16によれば、携挙の時には、まず「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られ」ます。
これって、よく想像していただきたいのですが、静かに知らない間にいつの間にか起こっていた、などと言う代物ではとてもないですよね。
どんな号令か、あるいは御使いの声がどんな声か、ラッパがどんな響きか、実際に聞いて見なければ分かりませんが、少なくともかなりうるさそうです。
緊急地震速報と町内アナウンスとサイレンが一度に鳴り響くようなイメージでしょうか。
多くの人たちが「いったいこれは何の音だ!?」と大騒ぎになるでしょう。
耳がだいぶ遠い私の母もしっかり聞き取れるレベルだと思います(笑)。

この時点で、レフトビハインドの映画(ニコラス・ケイジ主演)にある携挙の描写は明らかに間違っています。
突然人がいなくなることに焦点を当てていますが、音についての描写がすっぽり抜け落ちています。
何の音もなく、一瞬でクリスチャンが世界中から蒸発するようなニュアンスは、この聖句にむしろ真っ向から反しています。
もし、「いや、この音は霊的な世界で起こる音である」とか「天における音である」と主張しているとすれば、人の耳には実際に聞き取れないような音源をわざわざ3つもここにリストアップする理由がわかりません。

前携挙説者の多くは、マタイ24:36−44を携挙についての描写と信じているようですが、これについては私はそうではないと思っています。(以前のブログをお読みください)
レフトビハインドも、第一テサロニケの携挙の個所ではなく、このマタイの記事からイメージを膨らませているものと思われますが、なぜよりはっきりと語っている第一テサロニケを台本にしなかったのでしょうか。

さらに第一テサロニケを読んでいくと、ますますレフトビハインドの描写とは相入れないことがはっきりしてきます。
「主イエスが天から下って来られ」〜「キリストにある死者がよみがえり」〜「生き残っている人たちが彼らとともに引き上げられ」〜「空中で主と会う」
というのが一連の流れです。
これが、携挙と呼ばれているイベントのはずです。
イエス様がよみがえられたときには、復活の体でよみがえりましたが、弟子たちを始め多くの人たちの前に姿を現されました。
オリーブ山で天に上って行かれる時も、みんなが見ている前でそうされました。
しかもその時二人の天使が、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」と預言したことも記されています。

こうして、イエス様が下って来られることや死者が復活されることは目に見える出来事であることを聖書は語っているのに、どういうわけか、多くの人がテサロニケではなくマタイ24:40―41に実際の携挙のイメージを求めてしまっている気がしてなりません。
以前のブログに書いたように、マタイ24章は、守られるために「残される」人と裁かれるために「取られる」人がいると理解する方が自然な理解であり、前携挙説の理解とは真逆の可能性が大なのです。

唯一の明確な携挙についての聖句である第一テサロニケ4章(と次の5章)をじっくりと読むなら、レフトビハインドに代表される前携挙説の説明は矛盾が多いと言わざるを得ません。
そして次のブログで述べますが、この個所から、携挙をイエス様の「地上再臨」と切り離し、地上再臨は艱難の後にあるが、携挙はいつでも突然起こり得るのだ、とする結論を導くことは極めて困難です。



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