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日々雑感を書いていきます。無精者なので更新は気の向いた時・・・・ということであしからず!
10人の娘とは?(3)
2021/05/14 19:09:58 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
10人の娘の譬えには、イエス様ご自身が語られた明確なメッセージと意図があることを申し上げました。
では、イエス様が語りたかったのはそれ「だけ」なのでしょうか?

私を含めて教会で説教をする人は、メッセージを深化させ、聞き手に理解させようとするあまり、ついつい本来の意図ではないことまでも、物語の中に読み取ろうとする傾向があります。
特に個人的な主観やイデオロギーがフィルターになり、オリジナルストーリーのメッセージからかけ離れた解釈になってしまう場合があるので、慎重さが必要です。
へりくだって聖霊の導きを求めると同時に、間違う可能性が十分にあることを常に意識したいものです。
なので、10人の娘のたとえ話にしても、まずは「いつイエス様が来られてもいいように準備すべし」とのイエス様の明確なメッセージを押さえつつ、くれぐれも行き過ぎた解釈にならないように注意したいものです。

そう考えたときに、福音派界隈で聞かれる次の解釈ってどうなん?って思うのです。

1.油は聖霊を象徴
解説:5人の賢い娘は予備の油を持っていたが、残りの5人の娘は持っていなかった。聖書では油は聖霊を象徴する。ゆえに、油を持っていた5人とは聖霊を持ってる人(あるいは聖霊に満たされている人)であり、残りの5人は持っていない人である。聖霊を受けている人は宴会の席に加われるが(救われるが)、そうでない人は救われることはない。

全員をクリスチャンとするか、あるいは油を持っている人だけをクリスチャンとするか若干のバリエーションはありますが、この比喩的解釈めっちゃ多くないですか?
皮肉なことに、「字義的解釈」にこだわりを持つ方々の中に、油=聖霊という比喩を持ち込む人が多いように見受けられます。
もちろんこの可能性がゼロというわけではないでしょう。
しかし、この物語を含むマタイ24章から25章までの終末についての教え(「オリーブ山の説教」と言われています)のどこにも聖霊の満たしとか、聖霊の内住とかいうテーマはありません。
聖書に油という単語が登場したら、それは必ず聖霊を意味すると考えるのは明らかに行きすぎです。
母親に「油切らしたから買ってきて」と頼まれたとしましょう。
その時「母はいつも聖霊の油注ぎが大切だって言ってたな。そうかこれはもっと聖霊を求めるように、母がわたしを諭しているのだ。」と「霊的解釈」をする人がいたら、目が点になりますよね(笑)。

確かにイエス様は他の個所で幾度も聖霊について語っています。
例えば、ヨハネ14〜16章には、イエス様が父なる神にお願いして弁護者(助け主)を遣わすと書かれていますが、これについては明確に聖霊のことであると説明しています。
(ちなみに私も5月いっぱいのメッセージは聖霊についてです。)
もし、10人の娘の譬えで使われている油が聖霊であれば、イエス様はきっとそうおっしゃったのではないかと思います。
第一テサロニケ5章19節「御霊を消してはいけません」との関連で語る方もおりますが、やっぱりこじつけ感が否めません。

イエス様がたとえ話で取り上げる題材は、常に当時の人々の生活に身近なものばかりでした。
畑とか、お金とか、植物とか・・。
婚宴というのも人々の生活に密着した注目度抜群のイベントなので、譬えとして用いるにはぴったりの題材です。
イエス様は分かりやすくお話しするために、そのイベントに関することを話題として取り上げたのであって、それ以上の深読みには注意が必要です。

なお、24章32節の「いちじくの木」をイスラエルの比喩とし、「枝が柔らかくなって葉が出る」のを1948年のイスラエル建国と取る人がいますが、これも同様の理由で同意できません。
聖書に「いちじく」と書かれていたらすべてイスラエルと解釈するのは乱暴です。

2.10人の娘は艱難期に救われた異邦人
解説:この譬え話の前提として、花婿はすでに花嫁(教会を象徴)を迎えている、すなわち教会は携挙されていて地上にはないという設定がある。またイエスの再臨前には全イスラエルが救われているはずなので、イエスの地上再臨(花婿のお出まし)の時に地上でイエスを迎えるのは異邦人以外ありえない。ゆえに、油を用意した5人の賢い娘は信仰をもって救われた異邦人で、残りの5人は信仰を持たない異邦人である。

油を聖霊の象徴と解釈するのは、突拍子もないこととまでは言えないでしょう。
しかし、話の舞台設定としてすでに花婿は花嫁を迎えていて(携挙は終わっている)、イスラエルは全員救われているから、花婿を出迎えるのは全員異邦人だ、という解釈は突飛過ぎないでしょうか。

実はこの解釈は日本では大変有名な伝道師で、ディスペンセーション主義(詳しくはいずれ書きたいと思います)に立って盛んにYouTube等で聖書解説をなさっている先生の解釈です。
私は何度も先生の講演会に参加し、直接質問をぶつけたこともあります。
分かりやすさと熱心さにおいては大変学ぶべきところがあり、私も何度も参考にさせていただきました。
一方で、聖書解釈がディスペンセーション主義、あるいは艱難前携挙説(これについてもいずれ書きます)を前提にしていることで、終末に関する聖句やたとえ話の解釈が、それに合わせようとしすぎるあまり、無理やり感が半端ない場合があります。
このたとえ話の解釈もその一つです。

一つ一つ説明していると長くなりますので、これだけを申し上げます。
オリーブ山の説教のどこにも携挙に関する言及はありません。
24章36〜42節は携挙のことだという声があるのは知っています。
しかし、私はそうではないという確信を持っています。
これもいずれどういうことか説明したいと思います。
いずれにしろ、あれほど終末について、そしてご自身の再臨について何度も語られたイエス様が、携挙については弟子たちに直接何も語らなかったことを考えれば、携挙が終末論の主要なテーマではないことは言わずもがなです。

携挙については唯一、第一テサロニケ4章16〜17節でパウロが言及しているだけです。
パウロ、ヨハネ、ペテロ、ヤコブはいずれも携挙には大きな関心を示していませんので、これを確定的な教理として固定化し、さらに全然関係のない聖書の文脈にそれを強引に見出そうとする試みは、御言葉の読み方、聴き方として正しいとは言えないのではないでしょうか。
御言葉はそんなに複雑ではないはずです。

たとえ話に話を戻します。この話をイエス様はユダヤ人である弟子たちに語っていて、彼らに「目を覚ましていなさい」とまで警告しています。
この話をイエス様から直接聞いた弟子たちが、「娘たち=艱難時代を通る異邦人」と理解したとはとても思えないです。
もし本当にそうだとしたら、弟子たちに対してこのメッセージの意味は何なのでしょうか。
違和感ありありです。
これはディスペンセーション主義という強力なフィルターを通さなければ絶対に出てこない結論ではないでしょうか。
ちなみに、その前にイスラエルは全部救われている、という前提も、これとは別に議論が必要ですね。

最後に・・・どうしても携挙をこの話の中に見出したいのであれば、むしろ花婿の到着(イエスの再臨)と娘たちの出迎え(携挙)があって、すぐに宴会の席が設けられている(天国)という読み方の方がより自然な理解とも言えます。
私たちは教理を物語に読み込むのではなく、物語から教理を導き出すように注意しなければなりません。

長くなってしまいました。私の理解が絶対正しいと申し上げるつもりは毛頭ありません。
おかしいと思った点があればご指摘いただければ幸いです。


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10人の娘とは?(2)
2021/05/13 11:14:15 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
たとえ話の解釈は簡単そうですが、意外と奥が深いです。
気をつけなければならないのは深読みしすぎて、本来意図されていないことまで読み込んでしまうこと。
10人の娘のたとえ話にはそうした深読みのケースが多いように思えます。

この譬えで言いたいことはめちゃくちゃ明白です。
最後にイエス様ご自身が結論を述べています。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(25:13)

誰が何と言おうと、イエス様が最も言いたかったのがこのことです。
つまり、
1.目を覚ましていること
2.その日、その時は誰も知らない
の2点です。

でも、それだけだと、「『目を覚ましている』ってどういうこと?」「『その日、その時』っていつのこと?」という疑問がわいてきます。
なので、たとえ話からそのヒントを探っていきます。

1の「目を覚ましていること」について考えます。
面白いことに、イエス様は結論として「目を覚ましていなさい」と言われていますが、たとえ話の中では10人の娘たちは全員途中で眠りこけてしまいます。
10人が途中で眠ってしまい、花婿が来たときに全員一斉に起き上がり、支度を始めました。
ここまでは、全員同じ線上にいます。
そして、花婿が来たという合図を聞くまで彼女たちが眠っていたこと自体は非難されていないことも注目点です。
しかし、問題は5人の娘は予備の油を用意していたのに、後の5人はそうではなかったというところです。
そしてこの予備の油が持っていたかどうかが、彼女たちのその後の運命を決定づけています。

その内容から、「目を覚ましている」=「常に覚醒状態である」ということを意味しないことは明白です。
そうではなく、「目を覚ましている」=「いつその時がきてもいいように、準備万端にしている」という意味になります。

次に、2の「その日、その時」はいつのことでしょうか。
たとえ話では、花婿が到着するところにスポットが当てられています。
この部分をより正確に理解するには、当時のイスラエルの婚礼の習慣を理解する必要がありますが、ここでは割愛いたします。
24章から続く文脈全体からこの花婿がイエス・キリストであることは疑いようがありません。
花婿の到着がイエス・キリストの再臨を指していることも同様です。
なので、「その日、その時」はイエス様が再び地上においでになる時を指しています。
それ以外の解釈を聞いたことがないので、ここは皆さん納得されるところですね。

そんなわけで、イエス様がこのたとえ話を通して最も言いたかったことは、「私がいつ再びこの地上に戻って来るか誰も分からない。ゆえに、いつ私が来てもいいように、しっかり準備をしていなさい。」ということです。
はっきりしているポイントはこれだけだと言ってもいいでしょう。
これは、イエス様の再臨を待ち望む信仰に立つことの大切さを表しています。
クリスチャンの信仰は、イエス様の再臨とは切っても切り離せないものなのです。

と、ざっくり解釈をしましたが、実は私が言いたかったのはここではありません。
このたとえ話に絡むいろんな教えがあって、それってどうなん?と感じることがあるのです。
みなさんなかなか深読みがお上手で・・

次のブログでそれらを取り上げてみたいと思います。


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10人の娘とは?(1)
2021/05/12 18:42:22 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
このブログでは珍しく(?)御言葉を私になりに解釈してみたいと思います。
よく「御言葉の解き明かし」と言いますが、私はこの言い方が苦手です(笑)
毎日曜日の礼拝のたびごとにメッセージをしているのですが、なぜかブログに書くのは別のトピックばかりですね。

個所はマタイ25章1-13節の「10人のおとめ(娘)」のたとえ話。
以下は、物語風に半端なく意訳した東風平訳

====================

ある結婚式で10人の娘たちが花嫁のお世話をすることになりました。
どんなお世話かというと、花婿がやって来たときに出迎えて花嫁の元にお連れし宴会場にエスコートすることです。
結婚式は夕方から始まることが多いので、夜道を照らすための明かりが欠かせません。
その明かりを照らすのも彼女たちの大切な役目です。

10人の娘たちはそれぞれランプを手に持ち、花婿が来るのを今か今かと待っていました。
ところが待てど暮らせど花婿はやってきません。
娘たちは待ちくたびれて、とうとう眠りこけてしまいました。

真夜中になりました。
突然声がしました。
「花婿が到着したぞ!さあ、すぐに準備をして出迎えなさい!」
慌てた娘たちは、すぐに起き上がってランプを手に取り外に出ました。
ところが、10人のうち、5人の娘は予備の油を用意していませんでした。
まさか、こんなに遅くなるとは思っていなかったのです。
ランプの油は残りわずかです。
このままだと宴会場まで火が持ちそうにありません。
困った5人の娘たちは、予備の油を準備していた他の5人の娘たちにお願いしました。
「すみません。私たち予備の油を準備していなかったので、少し分けてもらえますか?」
油を用意していた方の5人は申し訳なさそうに言いました。
「実は私たちも自分たちの分だけしか持っていないのです。残念ですがお分けするほどの余裕はありません。お店に行って買ってきてはいかがでしょうか?」

さあ、困りました。
時は真夜中です。
こんな時間に開いているお店などあるのでしょうか。
でも考えている時間はありません。
花婿はもうすぐにでもやって来ます。
5人は油を売っているお店に急いで向かいました。

すぐに花婿は到着しました。
油の準備をしていた5人の娘たちは花婿を出迎え、花嫁と共に宴会場へとお連れしました。
宴会場に着き、全員が中に入った後、係りの者がドアを閉め内側から鍵をかけました。

さあ、お店に向かった5人の娘たちはどうなったでしょうか。
どうやら開いていたお店を見つけたか、無理やりお店を開けさせたかして、油をどうにかゲットすることができました。
しかし大分時間を使ってしまいましたので、ほっとしている余裕はありません。
大急ぎで宴会場に向かいました。

宴会場に着いたときには花婿たちはとっくに到着した後で、ドアには鍵がかかっていました。
式はすでに始まっていました。
5人はドアをたたいて言いました。
「遅れて申し訳ございません。たった今戻りました。ドアを開けていただけないでしょうか。」
中から声がしました。
「誰だ?もう式は始まっている。開けられない。」
5人は言いました。
「私たちは、花嫁にお仕えする娘です。買い物に行っていたため遅くなりました。お願いします。開けてください。」
しかし、中から聞こえてきた返事は無情なものでした。
「あなたたちのことは知らない。お引き取り願おう。」

こうして5人の娘たちは、予備の油を持っていなかったために大切な式に参加させてもらえず、たいそうがっかりしたということです。ちゃんちゃん

解説は次のブログで


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終末と神の裁き(1)
2021/03/08 13:19:25 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
5歳の子を実の母親とその「ママ友」が餓死させるという、大変痛ましい事件がありました。
現在捜査が行われている途中で、具体的な事実関係はこれから明らかになってくると思いますが、これまでに報道されていることが事実であるならば、ママ友に対する憤りを禁じ得ません。
母親自身も親としての責任は免れませんが、信頼していたママ友にことごとく騙されていたことを知った彼女の衝撃の大きさは想像に難くありません。

これまでの報道では、彼女は罪を認めているが、ママ友は否認しているとのこと。
ますます私の中に抑えがたい怒りを感じます。(牧師という身でありますが、ここは素直に表現させてください)
恐らく多くの人たちが私と同じ気持ちだと思います。
亡くなった男の子が本当に不憫でかわいそう。
とても許し難い事件。
ママ友には厳罰が下ってほしい。

もし、ここで正当な「裁き」が行われないとしたらどうでしょうか。
これだけの非道な罪を犯した人が法によって裁かれず、当然受けるべき罰を受けなかったとしたら、誰が納得できるでしょうか。
「これではとても被害者は報われない」と感じますよね。
正しい裁きが存在するということは、正しく社会が機能するために必要不可欠な前提条件です。

私たちの教会でヨハネの黙示録を学びながら、この書が書かれた紀元1世紀末、ローマの支配下にあった教会に思いを馳せます。
ローマ皇帝やその偶像を拝むことを拒否し、イエス・キリストに対する信仰を表明しただけで投獄され、ある者は見せ物としてライオンなど猛獣の餌食にされ、ある者はたいまつ代わりに生きたまま火をつけられる阿鼻叫喚の地獄絵図。
当時のクリスチャンにとって、皇帝礼拝を拒否しイエスを証しすることはまさしく死を意味しました。
彼らを迫害する者、殉教に追いやる者を裁く仕組みなど、その国家には存在しなかったのです。

そのような時代を生き、信仰の仲間たちの無念の死を見届けたクリスチャンが、悪しき勢力に対する神の正当な裁きを求めたことを非難できる人がいるでしょうか。
「聖なるまことの主よ。いつまで裁きを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示録6:10)という殉教者の魂の叫びに私も深く共感します。

黙示録は、反キリストや偶像への礼拝を強要する力に対し、苦難を生き、子羊なるイエスに従い続ける信仰者の勝利を描いています。
神が必ず裁いてくださるという単純な約束の事実が、当時のキリスト者にとって、どれほど大きな慰めと励ましになったことでしょうか。
18章から19章にかけての大バビロンの滅び、サタンである竜、反キリストである獣に従った者たちが受ける裁きの描写はあまりにおどろおどろしく、思わず「ここまでやらなくてもいいんじゃないの?」と目をそむけたくなるほどですが、むしろ世の終わりには神の厳粛な裁きがあるという事実に心を留めるべきだと思います。

教会での黙示録の学びで、この辺りを学んだ時なんとなく重たい雰囲気がありましたが、表現のグロさだけでなく、書かれた背景を知ることで、神の約束の確かさと公平さを学ぶことができたのではないかと思います。
神がとことんまで私たちを愛してくださっているばかりか、すべての世の不条理を最終的にご自身の義で公正に裁いてくださることに、今の混とんとした時代を生きている私たちもまた希望を持つことができるのではないでしょうか。
私は終末論において過去主義的アプローチは取りませんが、特に黙示録などは、その書かれた背景を読み解くことは必要なことだと強く感じます。


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千年王国と神の国
2021/03/03 19:15:33 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
キリスト教の中心テーマとは言えないのですが、たまにその解釈をめぐって議論になるものの一つに「千年王国」があります。
千年王国について、「わたしの教会では礼拝説教で牧師がしょっちゅう語っています」とおっしゃる方は、それだけで牧師のスタンスがかなりピンポイントで予想できます(笑)
昨年4月から終末論の学びを続けている私たちの教会では、今日初めてこのテーマについて学びました。
いつものように一通り私が説明をし終えた後、皆さんの表情を見ると、一様に「こりゃあ、理解するのむずかしいわ・・」っていう顔をしていました。(予想通りです・・( ´∀` ))

千年王国とは、聖書の一番最後の書であるヨハネの黙示録の中にしかない、しかも最後から三番目の章である第20章にしか出てこない言葉です。(合計6回出てきます)。
概念としては旧約聖書のいくつかの預言書の中に見え隠れしていますが(解釈によります)、キリストご自身もパウロも、このことについては明確に語っていません。
分厚い聖書の最後から数えて数ページのところにようやく登場する内容ですから、普通の本で言えば「あとがき」の部分でちょこっと触れているだけような感じにも思えます。
終末について何度も語っているキリストご自身やパウロがほぼ沈黙していることを考えても、この解釈をめぐって正統とか異端とかを決めつけることには特に注意しなければなりません。

今日の学びでは、ざっくりと、1)千年王国はキリストの再臨の後に完成するという説(千年期前再臨説)、2)千年王国はあくまで象徴であり、現在の教会時代を指しているとする説(無千年王国説)、3)千年王国が地上で実現した後にキリストが再臨するという説(千年期後再臨説)の3つについて説明しました。
それぞれの主張にそれなりの聖書的根拠があり、その説が生まれて支持されてきた社会背景や歴史があることも併せて学びました。(私自身は1番目の「千年期前再臨説」を支持しています)

中でも、どうしても教理上押さえておきたいポイントは、いわゆる「神の国(天の国)」と千年王国とのつながりです。
イエス様は千年王国については明確に語られなかった一方で、神の国(マタイによる福音書では「天の国」という言葉が多用されているが同じ意味)については、まさに中心主題として何十回も語られました。
マタイでは「天の国は〇〇のようなものである」とイエス様が譬えで話されている個所がいくらでも散見されます。
その一つ一つを読んで分かるように、神の国は必ずしも遠い未来の話ではなく、イエス様がおられたあの2000年前の「現在」にすでにあったことがわかります。
少しくどい説明ですが、神の国とは「キリストの王的支配」という風に表現されます。
イエス・キリストが公の働きを開始したときから、小さな種が地に蒔かれ、芽を出し、根を張り、少しずつ植物が育っていくように、キリストの支配は世界に少しずつ広がり始めたのです。

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(マタイによる福音書13:31−33・新共同訳)

また、ファリサイ派の人たちがいつ神の国が来るのか、とイエスに尋ねたときの答えは特に重要です。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書7:20−21・新共同訳)

イエスが臨在されるところ、そこに神の支配があり、それこそが神の国なのだと言われたのです。
イエスの御名によって集まるところは神の国の一部ですから、教会も神の国です。(「♪ここも神の御国なれば 天地(あめつち)御歌を 歌い交わし♪」の讃美歌を思い出しますね。)

神の国についてはそれ以外にも多くの言及があります。(「神の国と神の義をまず第一に〜」など)
それらは神の国の「現在性」を特に強調しているように思えます。

一方で神の国には「終末性」の側面があります。

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイによる福音書13:24−30・新共同訳)

この麦と毒麦のたとえ話では、天の国(神の国)には良い人だけではなく、悪い人もいることがわかります。
そして刈り入れの時(終末)には、良い人と悪い人が峻別され、それぞれの運命が異なることを教えています。
まとめると、神の国は現在世界の中で拡大されつつありますが、ちょうど麦(御国の子ら)と毒麦(悪い者の子ら)が混在している状態であって、最終的な裁きの時には、悪い人たちは永遠の滅びへ、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く(マタイ13:43)」というのです。
何をもって悪いとか正しいとか判断されるのかと言えば、もちろん聖書全体を貫くテーマである「信仰」との関りで理解されますが、それについてはここでは触れません。

神の国は、上のたとえ話が示すように、現在の玉石混合状態から、今後終末に向かうにつれて、いよいよ悪が増大し混とんとした状態に向かうでしょう。
しかし最終的には、誰も言い訳ができない厳粛な裁きの時を迎え、その時キリストに迎え入れられた人は、キリストと共にある至福の時を過ごすのです。
これこそが「千年王国」であると私は理解します。
つまり、神の国は終末の千年王国によってついに完成を見るのです。
ここで千年王国が文字通り千年間(Millenniam)続くかどうかは、私はあまり大切ではないと思います。

いつになく長文になりましたが、今回これをブログに書いた理由は、ある著名な牧師のサイトに「神の国=千年王国」であるかのような記述があってとても違和感を覚えたからです。
冒頭に書きましたように、千年王国の理解の違いについて、自説が絶対に正しい、他説は間違いだ、と決めつけることに十分注意しなければなりませんが、私自身が取っているスタンスについては、公開をさせていただこうと思いました。

ご感想、ご意見、ご批判などお寄せくださると嬉しいです。


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