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気候変動、寒波、世の終わり(2)
2021/02/27 19:08:05 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
*追記しました(2/28)

私たちの教会では、昨年の4月から水曜日の聖書の学びと祈り会で終末論について学びを続けていますが、終末についての聖書の記述で際立つのは、天変地異についての非常に多くの聖句です。

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 」(ルカによる福音書21章25-26節)

「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(ペテロの第二の手紙3章10節)

「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。」(ヨハネの黙示録6章12-14節)

さらに自然界の異変(「神の怒り」の一部と解される)により、人間を含め生物の多くの命が失われることも預言されています。

「第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された。」(ヨハネの黙示録8章7-9節)

「第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。・・第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。」(同16章3, 8節)

かつては、将来「世の終わり」をもたらす主要因になるのは、核戦争や第三次世界大戦のような直接的殺戮行為であろうと言われていましたが、私は上記のような記述から、気候変動がもたらす影響の方がむしろ強いのではと推測しています。
もしそうであるなら、一部の愚かな人たちの行為に責任があるのではなく、人類全体、特に先進国にいてその原因を生み出す側にいる私たち一人一人の責任だと思うのです。
神を恐れない愚かな人間の利己主義によってこの問題は今後ますます加速し、気づいたときには手遅れの状態になっているのではと、かなり悲観的に考えたりします。
「地球温暖化など存在しない」と強弁し、取るべき対策を取らず、最も被害を受けやすい途上国の人々を食い物にしている先進国の政治家や利権にまみれた実業家たちはもちろんですが、それらの人たちの下で甘い汁を吸っている私たち一人一人もある意味同罪です。

お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。(エゼキエル書34章17-19節)

「自分たちは神を信じているから艱難を免れることができる」「裏で操っている闇の勢力の嘘に騙されてはいけない」として、あたかも責任は別のところにあり、自分たちは選ばれた民であるから大丈夫だとあぐらをかいているキリスト者はどうでしょうか。
裁きの時にそのような浅はかな言動について申し開きをしなければならないでしょう。

もちろん、聖書は世の終わりの出来事として政治的・宗教的なこと、反キリストの登場など、いろいろな要素があることを伝えているわけですが、ちょうどノアの洪水やバビロン捕囚がそうであったように、人間の罪深さ、自己中心性が極まった結果、もたらされるのだろうと思います。

神が造られた美しい環境を正しく管理することを人は命じられたのに(創世記2章15節)、明らかにその命令に逆らうことをし続け、今や私たちはその「当然の報い」を受けつつあるように感じます。
私たちの豊かで便利なライフスタイルが、自らの首を絞めることになるばかりか、貧しい途上国に対して気候変動という大きなしわ寄せをもたらしている事実を認識する必要はないでしょうか。
そして神を恐れ、神の前にへりくだると同時に、たとえ小さなことでも私たちが自分たちの生活の中でできることは何か考えていくべきだと思います。


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