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オリーブ山の説教には携挙のことが書かれている?(1)
2021/06/08 13:41:11 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
前にマタイ25章の「10人の娘たちのたとえ」について、3回にわたり個人的な解説をいたしました。
改めて25章を含む「オリーブ山の説教」と呼ばれる個所に言及したいと思います。
基本的には、聖書についてある程度詳しい方、終末論に興味のある方向けです。
全く前知識がない方には難しいテーマになるかと思いますのでご了承ください。

さて、マタイ24章と25章の2章はイエス・キリストが終末について預言した個所として知られています。
この預言全体をすでに歴史上成就したものと見なす「過去主義」と呼ばれる解釈や、逆にこれからの時代にすべて起こると理解する「未来主義」と呼ばれる解釈があります。
一方で、一部は成就したが一部はこれから起こることとするいわゆる折衷案があり、「歴史主義」と呼ばれていますが、私はこの立場に立っています。
これら一つ一つについてはここではこれ以上言及しません。

私が今日テーマにしたいのは、未来主義に立って解釈をされる方々の中に「24章は教会の携挙に言及している」という方がおられますが、果たしてそうなのかということです。
24章のどこにそれがあるのかと主張されているのかと言えば、36〜42節です。
全文書き出してみます。(訳は「新改訳2017年訳」です)。

36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 
37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 
38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 
39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。 
40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 
41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 
42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

注目すべきポイントが幾つかありますが、まずサンドイッチのパンの部分のように全体を挟み込んでいる言葉が「その日、その時は誰も知らない」ということです。
36節と42節にそれが書かれています。
書き出しと結論で繰り返されていることから、イエス様が最も言いたいことがこの部分であることは間違いないでしょう。
問題は、「その日、その時」が何を指すかということです。
これが未来主義の方々のように「携挙の日」と解釈することが可能かということを、3つのポイントから説明したいと思います。
(未来主義の解釈を取る方たちは、携挙は艱難の前に起こると解釈する「艱難前携挙説」の方たちとほぼ重なるので、以下「前携挙説」として話を勧めます。)

1.「来る(パルーシア)」という言葉

39節に、イエスはノアの洪水の例を引き合いに出して、「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようです」と語っています。
前携挙説を支持する方は、これは携挙のことだと説明しています。
果たしてそう取れるでしょうか。

ここで「来る」と訳されている単語はもともとのギリシア語で「パルーシア」という単語です。
パルーシアはイエスの再臨についてだけではなく、一般的な「到着」あるいは「到来」を表す単語として聖書中繰り返し使われています。

3つ例を挙げます。
「ステファナとポルトナとアカイコが来たので、私は喜んでいます。」(第一コリント16:17)
「しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。」(第二コリント7:6)
「そうなれば、私は再びあなたがたの元に行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。」(ピリピ1:26)

これらに共通していることは、「来る」主体は目に見える形で目的地に実際に到着し、そこの人たちと交わりをすることができた(できる)ということです。
つまり、ステファナやポルトナやアカイコやテトスやパウロは、実際の肉体を伴ってそこに行った(行くことになった)のです。
「目に見えない形で」とか「途中まで」とか「空中まで」という意味合いはその中にありません。
ところが、携挙の概念は、イエスが空中まで目に見えない形で来られて、信者を空中に引き挙げるということです。
これは、パルーシアという単語には含まれていない概念です。
よって、39節の「人の子が来る」を携挙と解釈することは困難と言えます。

さらに、問題があります。
27節でイエスはご自身の再臨について言及していますが、そこでもパルーシアが使われています。

「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。」(マタイ24:27)

この個所は内容から見てイエスの再臨であることは、前携挙説を支持される方も認めておられるところです。
同じパルーシアという単語が、わずか数節離れているだけで、一方は「再臨」を意味し、もう一方は「携挙」を意味するというのは考えにくいのではないでしょうか。
この言葉を直接聞いていた弟子たちは、そのような理解が果たしてできたでしょうか。
そもそも、弟子たちは最初にイエスに「あなたが来られ(パルーシア)世が終わるときのしるしは、どのようなものですか。」と質問しているので、弟子たちの中にあるのは一度っきりの「再臨(パルーシア)」という概念しかないはずです。

結論として、文脈上38-42節の最も自然な解釈は、「イエスが再臨される日にちは誰にも分からない」ということになります。


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