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オリーブ山の説教には携挙のことが書かれている?(2)
2021/06/08 15:46:31 ブログカテゴリ 日常 | 書庫 聖書
前回の続きです。

2.「ペリ・デ」は何を意味するか

マタイ24章36節冒頭に「ただし」という単語がありますが、ギリシア語ではここに「ペリ・デ」という言葉が使われています。
このペリ・デは、ある話題から別の話題に話を切り替える目的で使われることの多い言葉で、福音書や使徒の働き、パウロ書簡に何度か登場します。
第一コリントから数か所書き出します。

次に、偶像に捧げた肉についてですが〜」(第一コリント8:1)
さて、兄弟たち。御霊の賜物については〜」(同12:1)
さて、聖徒たちのための献金については〜」(同16:1)

ほぼ同じような訳し方をしていますね。
つまり、「さて〜については」と差し込むことで、その前に話していた話題をスムーズに次の話題に移行していることがわかります。
このような役割を果たす接続詞であるということから、前携挙説の方は、「イエスは35節までは再臨について語っているが、36節では話題を切り替えて携挙について語っているのだ」と説明します。
このような解釈は可能でしょうか。

まず、この主張をされる方たちは、新改訳聖書の「ただし」という訳は正しくないと言います。
新共同訳に至っては訳されてもいませんのでさらにダメ出しをします。
話題を切り替えているので「さて」とか「ところで」と訳すべきで、英語で言えば「By the way」が適訳だというわけです。
では、英語訳ではどう訳されているかと言えば、調べた範囲では8種類ありました。

But about〜(しかし〜については)NIV, NRSV, NASB
But of 〜(しかし〜については)KJ21, ASV, KJV, ASV, DARBY, NASB95, RSV, WYC
But(しかし)TLB
However(しかし) NLT
Concerning(〜については) MEV
But concerning〜(しかし〜については)LEB 
Now concerning〜(さて〜については)HCSV 
訳なし、NCV, GW, NIrV

圧倒的に、But of(しかし〜については)が多いのですが、他の訳も意味としてはほぼ同じと言っていいと思います。
日本の新共同訳系のように、そもそも訳していないのもあります。
特筆すべきは、これだけ多くの訳がある中で「By the way(ところで)」というように、完全に話題を切り替える時によく使われる言葉は一つもないということです。
和訳に「ところで」が使われなかったのもうなずけます。
実際、ギリシア語辞典やギリシア語―英語対訳聖書で調べても、「ところで」という意味は出てこず、Peri(Concerning) de(but)のような意味しか書かれていませんので、他によっぽど言語学的な根拠がない限りここは和訳にせよ、英訳にせよ、あまりケチをつけるべきではないでしょう。

しかし、事実「ただし〜」や「しかし〜」であったとして、イエス様がここで携挙のことについて言及しているという可能性はあるでしょうか。
それを解くカギは、イエス様は何に対して、「〜について(about, concerning)」と言われたのか、ということです。
これは実は文脈を読めば明らかです。
イエス様は「その日、その時については」と言われたのです。
もし携挙について話題を切り替えるのであれば、「ただし、携挙については〜」とか、少なくとも「ただし、携挙の日や時については〜」というような言い方になるはずです。
(仮定法の話をしています。携挙という言葉が聖書にないことは言わずもがなです)
「その」という代名詞はその前に出てきた言葉を受けてのことですから、いくら話題を切り替えたとしてもいきなり前振りもなくこの言葉を使うはずはありません。

ではなぜ、「その日、その時については」と言われたのでしょうか。
それは、その前の文脈でいちじくの木の譬えを話していて、その葉の様子を見たら夏が近いのを知ることができるように、様々な世の終わりのしるしを見たら、再臨が近いことを知りなさい、と警告を発しているからです。
つまり、「私の再臨の前にはいろいろなしるしがあるから、よく気をつけていなさい。でも、具体的な日にちについてはいつかは分からないですよ」と語られているにすぎません。
「再臨の予兆はあります。でもそれ(再臨の日)がいつかは分かりません。」とシンプルに理解すればいいのです。
それ以外の考え方をしなければならない積極的な理由は、「ここは携挙について語っているはずだ」という固定観念がない限りあり得ないように思います。

ちなみに、イエス様は24章36節以外でも「ペリ・デ」を使っておられます。
文脈を確認するためにその前の節から書き出してみます。
「イエスは答えられた。『あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。』」(マタイ22:29〜31、マルコ12:26は並行記事)

サドカイ派の人たちの復活についての質問に対してイエス様が答えている場面ですが、読んで分かるように、イエス様は全く違う話題に移行するためにペリ・デを用いているのではありません。
一連の復活についての教えの中で、特に強調したい部分について「〜については」と述べたのです。
これは「ところで」と訳せない言葉です。

最初に説明したように、パウロが用いた「ペリ・デ」は確かに話題を別のことに移す目的があると思われます。
それでも、「ところで」と訳せるほど全然違う話題に切り替わっているわけではありません。
訳す時には文脈を見なければなりません。
マタイ24:36は、終末について、特にイエスの再臨についての一連の教えの中の一コマです。
その文脈を踏まえた理解の仕方が必要です。
「その日、その時」とは、携挙のことを指しているのではなく、イエスの再臨についてのことであるというのが、文脈上最も自然な理解です。


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